門限に遅れ、27年間幽閉された大奥の筆頭 「絵島囲み屋敷」
春は絢爛な桜で有名な信州高遠城址公園に隣接している、伊那市立高遠町歴史博物館。ここの敷地には、大奥女中筆頭の「絵島」が幽閉された屋敷が復元されており、「絵島囲み屋敷」として公開されている。4月中旬、この場所を訪れた。
大奥入りした絵島 墓参りの帰りに起こった事件
絵島は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期に江戸城大奥の御年寄(大奥女中の筆頭)となった。三河(現在の愛知県東部)で生まれ、江戸で育ち、尾張(同西部)の徳川家に仕えた後、甲府の徳川家の桜田御殿に仕えた。そして藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りし、家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、月光院の右腕と言われた。
事件が起きたのは、1714(正徳4)年1月12日。月光院の代理で前将軍・家宣の墓参りのため奥女中らと共に寛永寺と増上寺へ参詣し、その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、午後4時の門限に遅れた。その咎で評定所の取り調べを受け、山村座の役者であった生島新五郎との密会を疑われ、本来は死罪となるところをを減じて島流しと裁決が下った。当時大奥に勤める女中たちは、外部の男性との交際を固く禁じられていたのだ。この事件では、関係者1500人が処罰を受け、絵島の実兄は打ち首になったという。密会を疑われた役者の生島は三宅島に島流しとなった。また芝居小屋の山村座は廃座となり、その他の芝居小屋の営業時間も大幅に短縮されるようになった。しかし、この事件の真相はいまだに明らかにはなっていない。
27年間の幽閉生活
月光院が減刑を嘆願したため、信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。この時絵島は34歳。屋敷に幽閉され、一日2食、朝と夕方に、一汁一菜の食事を取り、酒、菓子類は禁じられた。衣服も木綿で仕立てたもののみ着用できた。ただ、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許可されていた。27年間の幽閉生活の後、1741(寛保元)年4月10日に、61歳で死去した。
8代将軍徳川吉宗の時、1722(享保7)年に高遠藩主の内藤頼卿が江戸家老に絵島の赦免嘆願書を提出し、許可が下りた。その後、絵島は高遠城内での移動は比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められるようになった。月に何度かは城に出入りもし、城に勤める女性たちのしつけの指導をするようにもなったという。
「絵島囲み屋敷」を訪れる
現代に復元された「絵島囲み屋敷」を見ると、一見、普通の屋敷や家屋のように見えるが、庭に面した格子戸ははめ殺しで開けられず、出入りが自由にできない。唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人が常時見張っていたという。また、絵島の世話をする下女が一人、隣の部屋に同居していたが、板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界とは完全に遮断されていた。実質、監獄である。紙も筆も与えられず、手紙のやりとりもできなかったという。
絵島が暮らした8畳一間の部屋を格子越しに覗いた。小さな文机の前に今でもひっそりと絵島がそこに座っているかのように感じられた。この場所に住み始めてから、4年後には自らの希望で魚を食べることもやめ、完全な精進の粗食のみを口にしたという。
囲炉裏端 ここで給仕をしていた
絵島は何を考えながらここで暮らしていたのだろう。華やかで絢爛ではあるが、常に人間の欲望と嫉妬が渦巻く大奥の生活と喧騒から逃れて、心静かに暮らしたのだろうか。あるいは、自分が犯した罪によって多くの人たちがあまりにも重い処罰を受けたことに衝撃を受け、深い心の傷を負っただろうか。
夕方4時の門限に一時間遅れたことで、ここまでの処罰とは、あまりにも重いのではないかと感じざるを得ないが、当時の大奥の乱れた風紀を粛清する大きなきっかけにもなった事件だとも言われている。またこの事件はさまざまな形で脚色され、現在も小説やドラマ、映画などで扱われている。
(冒頭の写真は、二重のしのび返しがほどこしてある板塀)