72年目の原爆記念日を迎えた長崎――平和の価値について考える(2)
72年前の原爆投下の日の記憶をたどる
1945年8月9日、最初から長崎に原爆が投下される予定ではなかったという。本来、米軍の目標地は福岡県の
原爆は地上500メートルで爆発。500メートルという高さは、事前に「効果的」として計画されていた高さだった。広島と長崎に大きな原爆が2つ投下される前、米軍は日本各地に言わば練習用の「模擬原爆」を投下していた。その中で、どの高さで爆発させるのが最も「効果的か」という検証をしていたという。
原爆が落下したとき、周囲の建物や植物などあらゆるものが焼け、吹き飛ばされた。多くの木が爆風でなぎ倒された中、まっすぐに立ったまま残った1本の木があった。ほかの木々は爆風で倒れ傾いたが、この1本だけがまっすぐの状態で残ったことで、この場所が原爆落下の中心地であると確認された。現在その木はないが、「原爆落下中心地」として碑が建てられている。
原爆落下中心地から原爆資料館に向かう途中、川辺に降りられる場所がある。そこに当時の地層を見ることができる場所があった。当時のまま残された地層には、茶碗や木片などを見つけることができる。長崎市は復興の過程で、市全体を埋め立てている。現在の長崎は、原爆投下当時の地層を残し、遺骨のすべてを回収できないまま、その上に街が建てられている状態だという。あまりにも痛ましい犠牲の上に今日ある平和を実感した。
長崎の爆心地は山に囲まれており、死者数は広島より少なかったが、広島に投下されたウラン原子爆弾と比較して、長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾は威力が強く、爆心地付近では壕の一番奥にいた1人の少女以外は全員死亡した。
生活の中にある原爆の跡
「長崎は普通の生活の中に、原爆の跡も教会もある町だ」と山岸さんは話す。平和公園を出るとすぐそこに広がるのは、家やアパートが立ち並ぶごく普通の住宅地だ。
平和公園から少し歩いたところに、長崎大学医学部のキャンパスがある。原爆に関する専門的な医療データを持つ研究所を抱えており、ここにはさまざまな資料や遺構も数多く残されている。長崎大学医学部の校門の太く大きな柱は台座から少しずれて、やや傾いている状態で残っている。こんなどっしりとした柱が日常生活の中でずれることや傾くことは想像しがたいが、それがまさに爆風の強烈さを物語っている。その柱の脇を今日も学生たちが、友人たちと平和に語らいながら通り過ぎていく。
長崎大学医学部から少し歩いたところには山王神社があり、有名な一本柱の鳥居がある。もともとは4つ鳥居があったが、原爆によって吹き飛ばされて崩壊し、そのうちの1つのさらに半分だけが残り一本足の鳥居となった。この神社内には被爆したクスノキが残っている。薬を塗られて今も生き続けているクスノキは、生命を奪う原爆の脅威を生き延びた壮絶な自然の強さを見せてくれる。
被爆して生き残ったクスノキ。木の中に爆風で吹き飛んで入ったものが見える
山王神社の鳥居の真横やすぐ近くにはアパートが立ち並び、鳥居のある階段を下るとコンビニが見え、車の多い通りに出る。そこで私たちは再び、現代の日常風景に連れ戻される。
平和な時代を生きるということ
私たちは今、日本で戦争のない世の中に生きている。しかしひとたび世界に目を向ければ、今私たちが生きている時代が決して平和な時代とは言えないことは明らかだ。
72年前の広島・長崎への原爆投下は、目をそらし、耳をふさぎたくなるほどむごたらしい出来事だった。その記憶が時とともに風化し、当時の体験者の多くが鬼籍に入っていく中で、私たちが今享受している「平和」がどれほどの犠牲の上に成り立っている奇跡と恩恵であるのかを、今一度考えてみる必要があるのではないだろうか?
痛ましい歴史の痛みを負いながら、平和への祈りとともに生きてきた街、長崎。日常風景の中に今も残る原爆の記憶は、平和の尊さとその価値を見失いかけている私たちの心に警鐘を鳴らし続けている。
(おわり)
冒頭写真:原子爆弾落下中心地碑
参考記事
72年目の原爆記念日を迎えた長崎――平和の価値について考える(1)