宗教改革500周年 ルターの軌跡をたどる(後編)
2017年10月31日、この日ドイツはマルティン・ルターの宗教改革から500周年を迎えた。この日は通常、ドイツ国内で一部の州のみの祝日だったが、今年に限ってドイツ全土で祝日となった。10月31日は1517年にルターが、ローマ・カトリック教会に抗議する「95カ条の論題」を張り出した日でもあるが、1999年にもう一つの重要な意味を持つ日となった。
ヴィッテンベルクのルター記念館に残されている「ルターの間」。ここでルターは友人たちとの論議に花を咲かせた
アウグスブルク審問、そして宗教和議
ヴィッテンベルクから南に約470km。バイエルン州アウグスブルクは、「アウグスブルクの宗教和議」の舞台となった場所として、宗教史に登場する場所だ。同市街にある聖アンナ教会は、宗教改革とゆかりの深い教会だ。1518年、ルターはこの教会に滞在し、ローマ教皇庁の使者と面会して審問を受ける。使者であるカイエタヌス枢機卿はルターに自説の撤回を求めるが、ルターはこれを拒否した。
その後、ルターは身の危険から逃れるためアウグスブルクを去り、当時ルターを支持していた有力者の一人で、賢明公と呼ばれたザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受けて、ヴァルトブルク城で聖書のドイツ語訳に勤しんだ。1521年、ローマ・カトリック教会はルターを破門。しかしルター派は「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれるようになり、その勢力は力を増していった。1546年にルターは亡くなり、その死から9年後の1555年、アウグスブルクの宗教和議が成される。これによりアウグスブルク帝国議会はルターを容認し、都市や領主に対しての宗派の選択権を認めた。現在、ドイツは大きく分けて北部にプロテスタントが、南部にカトリックが多いが、これは宗教改革以降生まれた分布だ。
改革を目指し、もたらされた分断
ルターの「95カ条の論題」はそもそも、ローマ・カトリック教会の改革を願って提示されたものだった。しかし、結果としてもたらされたものは教会の分断だった。ユダヤ教徒のもとに現れたイエス・キリストの教えが、結局はそこから分かれてキリスト教の礎となったように、宗教の歴史にはしばしばそのようなことが繰り返されている。しかしアウグスブルクは、カトリックとプロテスタントが分断し、そしてまた和睦した場所でもある。
1555年の宗教和議が分断だったとしたら、444年後の1999年に行われた「義認の教理についての共同宣言」は同宗派間の歴史的な歩み寄りを象徴する出来事だった。「善行によって救われる」と説いた当時のカトリック教会の教えに対してルターは「信者は神の恵みの働きへの信頼のみによって義とされる(=救われる)」と主張した。同共同宣言では、「義認は信仰によってのみ得られるが、善行は信仰のしるしだ」と確認している。共同宣言の舞台となったのも聖アンナ教会だった。同教会はドイツで初めて、カトリックからプロテスタントに転換した教会でもある。
聖アンナ教会の表には、1999年の歴史的な「義認の教理についての共同宣言」を記念するレリーフが掲げられている
ルターの不屈の精神が残したもの
ルターの残した改革の軌跡は、ほかにもドイツ各地にある。たとえばザクセンの中心都市だったライプツィヒの聖トーマス教会。ルターが壇上に立ち説教を行なったこともある同教会は、楽聖と呼ばれたヨハン=ゼバスチャン・バッハを輩出している。同教会で1723~1750年にかけてカントル(教会音楽の指導者)を務めたバッハは1685年、アイゼナッハでルター派の家庭に生まれた。アイゼナッハは、ルターが聖書の翻訳に勤しんだヴァルトブルク城のある町だ。
バッハがオルガン奏者兼指揮者を務めたライプツィヒの聖トーマス教会。バッハもルター派の信徒だった
ルターが残した有名な言葉に、「たとえ明日世界が終わると分かっていたとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」がある。当時、絶対的権力の象徴だったローマ・カトリック教会の腐敗体質に抗議し、宗教改革、そして欧州近代化への大きな流れを切り開くことになったマルティン・ルター。福音の中にあるべき「神の義」を生涯追い求め続けたその不屈の精神は、混とんとした世の中に生きる私たちが、忘れかけているものを思い出させてくれるような気がする。
ヴィッテンベルク城教会前に掲げられた、ルターの「95カ条の論題」の銅板
参考記事
宗教改革500周年 ルターの軌跡をたどる(前編)(2017/10/30)