「始める力、進める力」青春基地 石黒和己さん(1)中高生に実践教育プログラム
特別インタビュー/NPO法人「青春基地」代表理事 石黒和己さん(1)
自身も高校生の時からさまざまな活動を自ら立ち上げてきた石黒
高校に出向いて実践授業 地域の人との出会い仕掛ける
――「青春基地」の「青春」と「基地」って、わくわくする言葉ですが、なぜこの名前に?
ちょっと恥ずかしいですよね(笑)。青春基地を立ち上げたのは大学3年生の春です。私は、高校生の頃から友達とプロジェクトを立ち上げたり、大人に会いに行ったりしていました。周りから「行動力があるね」とか、「意義のあることをやっていてすごいよね」と言われたのですが、自分の高校の同級生が7人しかいなかったこともあり(編集部注:理由は後述)、とにかく学外の友達が増えることが嬉しくて楽しかったんです。
そこから、特に社会的意義や明確な理由がなくても、動いてどんどん人やカルチャーに出会っていける機会をつくることで、より多くの高校生にその機会を届けられないかと考えました。まずは「徹底的に楽しむこと」を大切にして、好奇心に突き動かされていく瞬間を重ねていくこと、これはつまり「青春」かなと。
そして「基地」は拠り所でもあり、みんなが挑戦していく場所という意味を込めて名付けました。基地は人が集まるベースですが、それだけではなくてロケットを発射するわけじゃないけど、何かをするために準備をして、外に飛び出していく場所ですよね。
すごく悩んだというより、構想中にぱっと「青春基地」って出てきたという感じでした(笑)
――今、「青春基地」はどんなことをメーンに活動しているんですか?
「課題研究」という総合学科や専門系の高校にある必須科目を使い、年間を通じて山梨県と福島県の2つの公立高校で授業を毎週行っています。山梨では、生徒が自分たちで会ってみたい人を取材したり、企画を立てて、フリーペーパーにまとめるということをしています。授業中にバスを出して地元の織物工場見学をしてお話を聞いたり、職人さんが布を切っている格好いい手さばきを見たり、町に出掛けてIターン・Uターンした若者がリノベーションした宿や食事する場所に行くとか。この1学期間で延べ80人くらいの方々との出会いを授業の中で仕掛けてきました。
自分の周りって、近すぎるから意外と知らないこと多いですよね。自分の地元は、少子高齢化だし、人口減少だし、おじいちゃんやおばあちゃんしかいなくってダサいって思ってたけど、町に出てみたらリノベーションされたお洒落なエリアがあって、想像と違うことに「わ、かっこいい」ってなる。生徒がいろんな出会いや経験を通じて、自分の周りの風景を見る角度がどんどん変わっていく、そういう取り組みをしています。この山梨での取り組みは、地元富士吉田市の元地域おこし協力隊の方による、NPO法人かえる舍と協働しています。課題研究は、地元との人脈がとても重要になるので、いつも色んなところへ連れていってもらうのですが、まず私たち自身が日々地域の魅力に心を躍らせています。
実際、私たちも地域の方と富士吉田のうどんを食べたり、富士山に登ってみたり、1回100分の授業のために、その5~6倍以上の時間を準備やコーディネートに投資していますし、かつ授業自体もかなり変則的です。そのため、学校の教育現場では、実践的な学びを届けたいけれども、方法論や時間の制約があるので先生方だけではなかなか難しいと困っていらっしゃる場合も多いようです。最近は学校の先生個人から直接声をかけていただくこともあります。学校という空間が、先生と生徒だけでなく、かかわる当事者全員が学び続けて、変わり続けることができるような環境になるようにしていくことが、青春基地の大事なミッションではないかと考えながらやっています。
原点は国際協力 現地体験で変わった「幸せの定義」
――今は教育に関わっているとのことですが、元々、教育に関心が?
子どもの頃の夢は絵本作家でしたね。ターシャ・テューダーさんというアメリカの絵本作家が好きで、その人みたいに生きたいと思っていました。
今の仕事に繋がる夢のきっかけは、中学3年生の時にありました。ウテ・クレーマーさんというブラジルの女性教師の方が学校の講演会に来られて、その話を聞いて国際協力に携わりたいと思うようになりました。彼女はブラジルのスラム街に保育園の開設と、親御さん向けの就労支援をして、それによって当時物乞いをしていた子どもたちの母が保育士の資格を取り、その人たちが職員になって幼稚園を運営していくという仕組みを作ったんです。幼児教育と合わせて親の雇用もつくり、この両輪を回した新しいコミュニティをつくることで貧困の連鎖が断ち切られたという話を聞いて、すごく格好いいなと。「私もこれを世界中でやるんだ」って思いました。
高校2年生の時に国際協力の現場に行ってみたいと、フィリピンの児童養護施設でボランティアをしました。子どもたちと一緒に遊んだり、幼稚園の建設の手伝いをしました。ホームステイ先には水道が通っていなかったので、家の裏側で水を浴びました。ただ、その町のインフラは未整備でしたが、家族を超えて一緒にご飯を食べるとか、とにかく仲が良くて、すごく素敵だったんです。自分の国際協力観として前提としていた「経済的支援によって豊かにすること=幸せ」という思い込みに気づき、ここにいる人たちより自分の周りの高校生の方がよっぽど悩んでいるのではないかと思いました。幸せの定義について揺らいだときに、自分はやはり国際協力というよりも、周辺の友人たちの課題でもある日本の教育に徹底的に携わりたいと思考の転換があり、そこからずっと日本の教育のことを考えています。
もう一つは、中学高校時代に「シュタイナー教育」というオルタナティブ(代替)教育を受けていたことも影響していると思っています。在学時は学校づくりの最中だったので、高校の同級生は7人しかいなかったとか、制服がないとか、あとは学校から一番近いコンビニまで歩いて1時間以上かかるとか、自分の中学高校生活が特殊すぎたこともあって、自分の原体験といわゆる普通の高校生との生活文化のギャップが大きかったんです(笑)。
大学入学後は、まずいわゆる普通の高校ってどんなところなのかを知りたくて、NPO法人カタリバのインターンとして高校の現場100カ所くらいに行きました。その時、衝撃を受けたのが、「初めて将来の夢を話した」とか「本音を言えない」、「どうせ無理」って、ほぼ99%の人がそう言っていたことです。それで「なんでこうなっているんだ? 高校生が疲弊したままなのは本当にもったいない。そうではない学校文化をつくらないといけない」と思って、学校という場所が、高校生が、どうしたら変われるのかを考え始めました。
――高校生の時の体験をきっかけに今の活動までつながっていますが、動き続ける原動力、力の源は何ですか?
自分の原動力には、いつも「楽しい」という好奇心があります。青春基地の立ち上げも、原点としては中高時代に学校内外でさまざまな経験をして、人と出会い、それが楽しかったからだと思います。他者と出会うことで、やっと自分のことが少しずつ見えてくる。自分が動かないと景色は変わらないと思っています。もちろん疲れて、家でごろごろする時もありますよ。でも私は専業主婦にはなれないだろうなあ。いつのまにか会社を立ち上げたりしている気がします(笑)。
そして自分が動き続けられているのは、周りにいる人たちのおかげだと思います。高校時代から出会ってきた私の周囲の大人は、みんな何かに挑戦していて、自分で動いている人たちでした。彼らがいつも全力で応援をしてくれることが、私の力や自信になっているのだと思います。何より、両親が好きにやらせてくれたので、両親の理解と応援は大きかったですね。昔から大抵のことに対して「大丈夫。多分、何とかなる」って思っているんですが、これは両親から守られているという精神的な安心感があったからだと思います。心の拠り所があることで、人間はようやく挑戦しようっていう考え方になれるのではないかなと思います。