「#MeToo」時代のセクハラ問題を考える(2) 性被害者が受ける二重の苦しみ
#MeToo運動の活性化や伊藤詩織さんの事件によって、セクシャルハラスメントや性暴力に対する世の中の認識に、多くの誤解が含まれていることが浮き彫りになりました。今回は引き続き、性被害に遭うということがどういうことなのかを見ていきたいと思います。
山田ゆり 臨床心理士。20年以上にわたって、病院や教育機関で心理療法を行っている。性暴力被害や、DV、子どもの頃の虐待などのトラウマ経験を持つクライエントの治療に携わっている。 |
―伊藤詩織さんが顔を出して、実名での記者会見に臨んだ際に、「被害者らしくない」「恥を知らないのか」といった批判を受けたといいます。伊藤さん自身「女性が性被害に関して語ることは、日本ではタブーで恥ずかしいこと」とその難しさについてコメントしています。これについては実際、性犯罪の被害者と接していて、どのように感じられますか。
性別を問わず性被害に遭った人たちは、それについて語ることに二重の障壁を感じていると思います。性的な被害に遭うということは、その人の尊厳や自尊心を踏みにじられることにほかなりません。このため、被害者が屈辱感、恥辱感を感じてしまい、「自分自身が汚された、傷ものになった」という感覚が生じて、自分自身を恥ずべきものだと思ってしまいます。これが第一の障壁であると言えます。
そして二つ目の障壁となるものが、被害者が社会からも実際にそのように見られているという点にあります。そのことを被害者もわかっていますから、性被害に遭ったと訴え出ることで、自分自身が被害者であるにも関わらず、社会から非難を浴びることへの恐怖が存在するのです。
そして「被害者に非があった」という非難は、見知らぬ他人からだけでなく、身近な家族や友人からさえも受けることがあります。これは「二次被害」や「セカンドレイプ」と呼ばれるもので、被害によって傷ついている被害者の心情をさらに傷つけることになります。被害者は自分を悪いもの、無力なものと感じ、自己否定し、絶望感から死にたいとさえ考えるようになってしまいます。
―日本では、セカンドレイプが起こりやすい傾向が特に強いのでしょうか?
セカンドレイプは日本だけでなく全世界的な問題として存在しています。ただ欧米ではフェミニズムの台頭ともに、1970年代からこの問題が指摘され、広く社会において啓発されてきたところがあります。これに比べて日本では性被害の問題に対する社会啓発はまだまだ立ち遅れており、性被害に対する認識には大きな隔たりがあると思います。
また、「傷物」という考え方は家長制度の強かった日本で強い概念だと思います。かつて、武家の女性は辱めを受けると自殺することを勧められていました。これと似た考え方として、イスラムの社会では現在でも、婚前または婚外交渉をした女性を、家族が「一家の名誉を守るために」殺害できるという「名誉殺人」が認められており、これには強姦された場合も含まれるといいます。
伊藤詩織さんと同じように、ご自分が性被害に遭ったことを実名と姿を出して公表された小林美佳さんという方がいらっしゃいます。小林さんの著書『性犯罪被害にあうということ』(朝日新聞出版,2008)には、このように書かれています。「……多くの被害者が、社会から弾き出された、そんな思いを抱えている。そして自分を護り切れなかったという自分への罪悪感、無力感を持つ。自分の価値を引き下げ、時に自らの命を絶つ。頭では『加害者が悪い』ことは分かっている。しかし、特に性犯罪の場合、それを表沙汰にできない風潮が社会にある。被害者たちは『隠さなくてはならない』と被害体験を抱え込み、揚げ句、自分に非があったのではないかという気持ちに苛まれ、それまでの自分の生き方や存在すべてが否定されるような心境に追い込まれ、自分自身を否定してしまうのではないか。……」
―セクハラの加害者と被害者の間には、しばしば認識のズレが見られます。加害者側が「親愛の情」から行なったと主張する行為が、被害者側には多大な精神的苦痛を与えているというようなことが、どうして起こるのでしょうか?
一つの理由として加害者は、自分の行なった行為を通常の性的な関係の一環としてとらえているということがあります。日常的な性行為の一つにすぎないとか、相手にも快の感覚があったはずだなどと思っているのです。しかし、強制による性行為は、被害者には、恐怖や不快感、屈辱感しか与えないものです。そこには性的な関係性に本来あるべき相手への愛情や尊敬の念、対等な関係性は存在しません。性的な行為がお互いにとってよいものであるためには、これらの肯定的な感情や対等な関係性が不可欠であるにもかかわらず、そのことを加害者は理解していないのです。
また、親愛の情と思っているのが加害者の言い訳に過ぎない場合もあります。強制的な性行為の裏側には、愛情のある性的な体験の満足を得ようとする気持ちではなく、相手を支配して満足を得たいという願望があります。もしも親愛の情があるならばどうして、相手が嫌がっているのにそのような行為をするでしょうか。そもそもの目的が被害者を支配したいということであるならば、被害者が「自分が人間として扱われていない」「モノとして扱われた」と思い、強い屈辱感を感じるのは当然のことなのです。
(次回に続く)
(写真はイメージ)
【参考記事】
「#MeToo」時代のセクハラ問題を考える(1) 性被害者はなぜ非難されるのか?(2018/09/17)