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福島に柳美里さんを訪ねて (2)

福島に柳美里さんを訪ねて(2) 震災と原発事故が作り出した新しい景色

2011年の東日本大震災で地震と津波、そして原発事故の被害に見舞われ、受難の土地として記憶されることになった福島。今、そこに暮らす人々はどのような日常を生きているのだろうか? 東京電力福島第一原発から至近の場所にある南相馬市で、10月に見た風景を振り返ってみたい。
 
福島に柳美里さんを訪ねて (2)
小高区の街中で見かけた「放射能測定センター」の看板
 

NHKニュースで流れる「放射線量」

「それでは、本日の放射線量です」
天気予報が終わるとアナウンサーがこう言った。場所は南相馬市原町区(全域が福島第一原発から30km圏内)のホテル。テレビでNHK福島のローカルニュースを見ていた時だった。

一瞬耳を疑った。しかし女性アナウンサーは淡々とした声で、まるで天気予報の一部のように福島県内の地域別放射線量の説明を始めた。

福島県は2つの山地によって縦割りに、3つの地域に区分されている。太平洋沿岸を「浜通り」、その隣が郡山市のある「中通り」と呼ばれている。そして海から最も遠い内陸地域が「会津」だ。NHKのニュースではこの3地域と、福島第一原発およびその付近の放射線量をそれぞれ報じていた。

翌日、ホテルのフロントでそのことについて聞いてみた。

「あの放射線量告知を見て、地元の皆さんはどうしているんですか? あぁ、今日はお布団が干せるなぁとか、今日は外出やめておこうかなとか、そういう判断基準になっているんですか?」

東京からやってきた筆者のこんな無知な問いかけに対して、ホテルマンの男性はにこやかに、そして親切に答えてくれた。

「あれはね、放射線量に関してさまざまなデマが飛び交って住民が不安にならないように、正しい情報を定期的に流しているものなんですよ」

それを聞いて、思い出したことがあった。1980年代、チェルノブイリ原発事故の影響を受けたドイツでも事故直後、食料品の放射線量を測る測量計を置いたパン屋があったという。原発事故の放射能に冒された土地で、その現実から目をそらさずに生きて行くということ。改めて、福島の人々の目には見えない苦難を思った。
 


津波被害後、安全のために海辺に設置された防潮堤
 

傷ついた風景の中で生きる人々

その日の午前中、原町から海の方に向かってタクシーで走ってもらった。ここにも、不思議な光景が広がっていた。東日本大震災後に海岸沿いに造られた防潮堤だ。津波を防ぐ効果があると言われるコンクリートの防潮堤は、まるで奇妙な国境のように人と海とを遮断し、人と海とが敵対しているかのような風景を作り出していた。その付近に、ごく最近、植樹祭があったという殺風景な土地が広がっていた。津波を生き延びたという背の高い松の木も数本、海に向かって寂しげに立っている。海水の浸水によって使えなくなった田んぼには、ソーラーパネルが並んでいたり、除染土を詰めたフレコンバッグが積み上げられていたりした。震災から7年が経っても、まだその傷跡は至るところに見られた。

震災後、この地域の常磐線の線路は大規模な高架線工事が行われたという。その常磐線も福島第一原発に近い「帰宅困難区域」の手前、浪江町のある浪江駅までで止まっている。駅に貼り出された分断されたままの路線図。浪江駅の先には何も表記されていなかった。
 

福島に柳美里さんを訪ねて (2)
津波被害を生き延びた数本の松の木が立つ浜辺
 

東京電力福島第一原発の事故を受けて政府が定めた避難指示区域は、3段階に分けられている。被害の度合いが大きい順に「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3つだ。このうち南相馬市では10月31日現在、避難指示が解かれた「旧避難指示解除準備区域」の住民登録数に対する実際の居住率が、原町区で63%、小高区で37%となっている。作家の柳美里さんは2015年に原町区に移り住み、今は小高区の自宅で書店を運営している。
(次回に続く)
 

福島に柳美里さんを訪ねて (2)
常磐線小高駅から海の方角を見た風景

(冒頭の写真は、防潮堤にさえぎられて視界からほぼ消えてしまった海)
 

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