PCや携帯電話、平成30年間の発展のカギとなったもの 前編
特集 平成はこんな時代だった
ポケベルからガラケー、スマートフォン。ワープロからデスクトップパソコン、そしてノートパソコン。平成の30年間において、私たちに身近な情報機器はデジタル化が進み、技術開発は驚くほど進化して大きな発展を遂げた。いくつかの例を挙げながら、情報機器類に起こった変化について見ていきたい。
LCDとノートパソコンの発展
ノートパソコンなどの身近な情報機器に大きな変化を与えたのは、液晶ディスプレイ(LCD)の進歩だ。LSI(大規模集積回路)がかつて「産業のコメ」と呼ばれたように、LCDは「産業の紙」と呼ばれ、様々な機器に組み込まれて発展していった。
LCDには大きく分けて2種類の方式がある。単純マトリクス方式とアクティブマトリクス方式だ。単純マトリックス方式は液晶を挟んだ基盤に縦と横に格子状に導線を張り巡らして、点灯させたい画素に両側から電圧をかけて液晶を駆動する方式である。アクティブマトリクスは画素一つ一つにTFT(薄膜トランジスタ)のような外部素子を付加して電圧制御する方式である。単純マトリクス方式は構造が単純で安価であるため、現在でも視認性よりもコストを重視されるときは単純マトリックス液晶が用いられる。
平成元年の1989年にはまだワープロ(ワードプロセッサー)専用機が隆盛だったが、ワープロにも初期のノートパソコンにも単純マトリクス液晶が使われていた。同年6月に発表された東芝のDynaBook J-3100SSが、世界初のA4サイズノートパソコンとなり、これには640×200ドットのモノクロLCDが搭載されている。この年が「ノートパソコン元年」と言われる。ちなみに、2019年1月販売のDynaBookの30周年記念モデルのLCDパネルは1920×1080ドットで、画素数が初代モデルの16.2倍になっている。
1991年10月、日本電気(NEC)より640×400ドットのTFTカラーLCD搭載のPC-9801NC(愛称:98NOTEカラー)が発売された。搭載OSはWindows 3.0。表示色数は16色。TFTカラーLCDを搭載したノートパソコンの世界で初めての製品化である。
TFT-LCDは構造が複雑であり量産化が確立するまで時間がかかった。初期のころは画面内でTFTが不良の死んだ画素が3個までは良品扱いで商品として販売されていたことがあった。画素が死んでいるとそこだけ電圧の制御ができずにいつでも点灯あるいは消灯したままになる。また、初期のパネルが16色しかないのは赤(R)、緑(G)、青(B)の画素をそれぞれオン、オフとその中間までしか制御することしかできなかったからだ。各画素で階調が取れるようになって色数を増やせるようになった。
東芝からは1992年4月、DynaBook 486-XSにおいて同シリーズで初のTFT-LCDパネルを搭載、画素数は640×480ドット、表示色数は256色。各社のノートパソコンはしばらくは低価格のモノクロ単純マトリックスLCDタイプとカラーTFT-LCDタイプがラインナップに並んでいた。やがて各社からTFT-LCDが量産化されるようになり、画素数もどんどん増えていく。ノートパソコンは完全にTFT-LCDになり、そしてまたノートパソコン以外の用途が広がっていった。テレビは完全にブラウン管から液晶テレビに置き換わるようになり、新しい製品としてプロジェクターが生まれるようになった。身近な情報機器としては、カシオ計算機が1995年3月に発売したデジタルカメラQV-10は、今まで光学機器であったカメラをデジタル機器に完全に変える先駆けとなった。
(冒頭の写真はイメージ)