常識精神医学を覆す『世に棲む患者』【GWに読みたい本】

[書評]常識精神医学を覆す『世に棲む患者』【GWに読みたい本】

筆者は平成2年(1990年)に医師となったので、平成の30年はそのまま、医師としての職業人生に重なる。この間、医学の情報が蓄積・公開されるスピードは飛躍的に加速し、1950年時点では医学知識が倍になるには50年かかると言われていたのが、2010年には3.5年にまでなった。2020年にはこれが、73日になるという。つまり、2カ月ちょっとで倍になってしまうのだ。

そんな膨大な情報量とあまたの医学書の中から、1冊を選ぶのは容易なことではないが、あえて自分自身のこれまでの医師人生、平成という時代を振り返ってみて大変有用だった1冊は何かと聞かれたとき、この本『世に棲む患者』を挙げたい。

著者の中井久夫氏は、1934年奈良県生まれ。京都大学医学部を卒業後、精神科医として臨床に携わりながら、若くして精神病理学の研究、海外書籍の翻訳から随筆、評論まで幅広い領域で頭角を現し、東京大学医学部講師、名古屋市立大学助教授、神戸大学医学部教授を歴任した。2013年には、文化功労賞(評論・翻訳)を受賞している。
 

統合失調症の患者とどう向き合うのか

精神科研修で研修医が最初に取り組む治療は統合失調症だ。これは一応独立した病気だということになっているが、実は症候群であるという学説もあるぐらい、症状も経過も多彩なもの。研修医は最初、先輩医師が診察するのに陪席し、カルテを見ることから始める。ところが治療が進んでいくのはわかるが、先輩医師が思考のすべてを解説することはなく(後で、ベテランになるほど、解説が難しくなる部分も出て来ることがわかった)、カルテに詳細が記録されることもない。「なぜ、こうなるのか?」を理解するのが難しかった。

そうこうするうちに、自分一人で患者に対峙し、治療をするようになるが、精神医学の教科書を読んでも、その情報だけではまったく太刀打ちできず、戸惑うことの連続だった。教科書には、諸説あることは書きにくい。そこに書いてあるのは研究を通して立証された内容が中心であり、これらはあくまでも最大公約数的なので、個人差が大きい統合失調症の患者を治療する上では、当てはまらないことが多くて役に立たないのである。

そういう状況に立たされた新米精神科医の筆者に、先輩たちが読むように勧めてくれたのがこの本だった。中井氏は当時50歳代半ば。臨床家としても研究者としても脂が乗っていた時で、その著作の評価も高かった。本書を読むことで、駆け出しの精神科として陥りがちな間違いに気づかされ、患者に、どのような構えで接すればよいのかを教えられた。

一例をあげる。
だれしも、自分または家族、職場の部下などに対し、精神の健康を管理しなければならない場面がある。たとえば、気分が落ち込む時にどうするか? 我慢する、人に聞いてもらう、運動する、お酒を飲むなど、その人なりの方法がある。それはだれもが、生きていく中で身に着けている<常識>精神医学とでもいうべきものだ。

筆者はしかし精神科医になった時点で、この<常識>精神医学を自分自身も使っていることを自覚せずに治療に携わろうとしていた。人は世の中を生きる中で精神的健康が低下した時に、<常識>精神医学で回復しようと努力する。しかし、そこで失敗したから病気になってしまうのだ。患者にはそういう経緯があるのに、精神科医が同じようなことを治療として繰り返せば、うまくいかないのは当然だ。

中井氏が本書の冒頭で、「統合失調症を病む人々は、『うかうかと』『柄になく』多数者の生き方に自らを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない」と述べている。こういった示唆に富んだ内容が、本書だけでなく著作集全編にちりばめられており、診療のかたわら読み進めていくうちに、自らの<常識>精神医学に気づかされた。そしてそれをいったん横に置き、病者に必要な精神医学を身につけるプロセスをたどることができた。
 

長く読み継がれる理由

今回、本書を読み直してみて、著者のその知識の豊富さはもとより、病者の心の機微を丁寧に読み取って寄り添い、家族の苦労にも思いをはせ、治療者の心情への配慮にも多く言及するなど、治療者としての愛にあふれた文章に改めて感銘を受けた。学説を引用した言葉ではなく、自らが実践し、感じ、考えた言葉なので、今読んでも、古びておらず、新しい気づきがある。日本語の書き手としても、精神医学の分野にとどまらず第一級だと思う。

本書が収録されている<中井久夫コレクション>の元となった著作集は、1984年の第1巻に始まり、1995(平成7)年で完結している。筆者は当時、全巻そろえて繰り返し読み、足を向けては眠れないぐらいにお世話になった。その後、転居や転職に伴って手放したが、今回、十数年ぶりに読もうと探したところ本書をみつけた。これは、著作集の内容を、著者本人が補足し、編集し直したものである。手元にある本は、「2017年第5刷」となっていて、平成の間、読み継がれてきたことがわかる。
 

書誌情報
『世に棲む患者』
著者:中井久夫
発売日:2011年3月9日
発行:筑摩書房