伊藤詩織さん勝訴 「証拠の優越」は明らかだった(後編)
刑事事件としては不起訴になった、伊藤詩織さんの性的暴行事件。このため、本件は民事裁判で争われることになりました。前編で触れた通り、民事裁判では「証拠の優越」というルールが適用されます。最も重要な証拠とされる被害者の証言は、どのように検証されたのでしょうか?
解説:三上誠 元検察官。弁護士事務所勤務を経て、現在はグローバル企業の法務部長としてビジネスの最前線に立つ、異色の経歴の持ち主。 |
信用できるのは、どちらの証言か?
被害者の証言が信用できるかどうかを判断するために最も重要なものは、客観的な証拠との整合性です。それが今回の場合は、判決でも触れられている「ホテルで目覚めた後の伊藤さんの行動」です。証拠関係を見ていないので断言できませんが、おそらくタクシーの利用や病院での薬の処方、友人への相談や警察への申告は、すべて客観的証拠により裏付けられていると推測されます。
その次に価値が高いのは、第三者的な立場の者による証言、たとえば本件では時間切れのために採用されなかったドアマンの証言がそれにあたります。また、証言の核心的な部分の変遷、つまり「証言がころころ変わってはいないのかどうか」も検証されます。事件の捜査が進むにつれて様々な証拠や証言が出てきますが、「他の証拠や証言とつじつまが合わなくなって、ころころ変わっていく証言は信用できない」ということです。その上で、証言自体の合理性も検証されます。
民事裁判では、双方の証言自体は公平に扱われます。客観的証拠から認められる動かせない事実をベースに、それらの事実をつなぐストーリーを双方に説明してもらうのですが、どちらの説明が信用できるかを検証する形で進みます。その過程では、客観的証拠から認められる事実との整合性や、核心的な部分の変遷の有無などから、どちらの証言が信用できるかを判断することになります。
本件の一審地裁判決は、このような伝統的な証言の信用性の検証方法に基づいて、「伊藤さんの証言の方が信用できる」と判決しており、それ自体は特に大きく指摘されるような内容のない、手堅い判決であると評価できます。
矛盾が指摘された被疑者の証言
客観的な証拠との整合性としては先ほど述べたとおりですし、伊藤さんの証言の核心的な部分に変遷がないことも検証されています。一方、加害者側の証言についても同様に検証されていますが、特に山口さんの証言が、過去に送ったメールの内容と矛盾しているということで「証言の核心的な部分が変遷している」と指摘され、「強度の酩酊状態にあった伊藤さんが、たったの2時間で回復した」という内容は合理性がないと判断されていました。
一人の法曹として正直に見解を申し上げるならば、本件は客観的証拠から導き出される事実だけで十分被害者の供述を認定できるほどのものであり、むしろこれで「同意があった」ことを認定するのは、裁判官としてはかなり難しいだろうと感じました。一方で加害者の証言には、これといって証言を裏付けるめぼしい客観的証拠は見当たらず、せいぜい「被害者はうそつきだ」と被害者への人格についての主張を行っているのみで、これ自体は裁判で重要視されるものではなく、さらにめぼしい証拠による裏付けもあるわけではありません。これほどの事件で弁護人が手を抜いたとは思えませんから、やはりその程度しか証拠はないのだろうと思います。
変わるべきは、性暴力被害者を取り巻く日本の環境
判決をベースに考えるならば、本件は、今世間で話題になっている「就活セクハラ」の極的なケースということになるでしょう。先ごろ、内部の検証委員会の報告書が発表された、DAYS JAPANの広河隆一氏に対する告発と合わせて、やはりこのような形でのセクハラが横行していることは問題視されてしかるべきだと思います。
最後になりましたが、本件は民事裁判の結果を見れば、事件当時の刑法下でも十分起訴に該当する事件であったと私は考えます。しかし伊藤さんは会見で「事件当時の刑法では起訴は難しかった、ということは言えると思います」と述べていました。この事件が当然起訴されるべきであったにもかかわらず不起訴となったことに対して、伊藤さん自身が異論や不満を述べるのでなく、むしろ性暴力の被害者を取り巻く法的・社会的状況を、刑法の見直しも含めて変えたいと考えていることに感銘を受けました。こういった伊藤詩織さんの姿勢、ジャーナリストとしてのタフさは、相手に対する根拠のない人格攻撃に終始していた山口氏と極めて対照的でした。
今回の裁判結果は、日本よりも海外で大々的に報道されました。今や日本国内で起こる出来事も日本の中だけで報道されるわけではなく、日本的な「
(写真はイメージ)