伝統文化を継承するということ(2)―木彫りの里 井波に伝わる彫刻美 後編
前編に引き続き、富山県の南西部に位置する日本一の木彫りの里、井波の彫刻家を訪ねました。
藤﨑
(記者)藤崎さんが、人物像を彫られるようになった経緯を教えてください。
(藤崎さん)我が家は4代に渡り木に携わる職人の家系です。私の曽祖父は挽き物をつくる木地屋、祖父は大工で、父は欄間を得意とする彫刻家でした。高校卒業後、父のもとで習い初めて1、2年経った頃に、父から「俺は欄間彫刻でやってきたがお前も同じ道をそのまま歩めると思うな。時代は変わる。自分の道は自分で切り開くように」と言われました。私も幼い頃から木を彫ることが好きでしたが、そのように言われたことにショックを受けました。
幼少の頃より祖母に連れられて神社、お寺に連れられる機会が多くありました。その頃より堂塔伽藍の装飾彫刻への興味よりも、皆が敬虔に手を合わせる逗子や空殿の奥に祀られている仏像を彫る人って凄い、格好良いという思いがありました。自分なりに考える中で、仏像彫刻を通して確かな技術を身に着けたいと思うようになり、この道に進むようになりました。そして近所の仏師の元で、授業を受けたり、並んでいる作品をスケッチして彫ったりして学びました。
私の雅号、
(記者)実際に木で人物を彫ってみていかがでしたか。
(藤崎さん)いつも生きている方の像を彫るとは限りません。曹洞宗では歴代の僧侶が世を去られると、僧侶の像を彫る習わしがあります。そのような場合は、生前の写真を送っていただいて、それを元に立体を作り上げていきます。最初の頃は遺族の方に、これはうちの主人ではないといわれて2回返品を受けたこともありました。首を切り落として作り直しましたが、その時はもうやめようかとかなり悩みました。
色々と失敗してみてわかったことは、亡くなった方の場合はその印象をより誇張するように彫ったほうが、頭に残っている生前の姿に近づくのだなということです。逆に、生きている方を彫る場合は、鼻筋を通してよりスマートに彫ったほうがご本人には好印象ということが分かりました。長く続けると、正面の写真を見ただけで後姿を描くことができるようになりました。
(記者)亡くなられた方と生きていらっしゃる方で、人の頭に残っているイメージが違うというのは面白いですね。これらの制作は分業なのでしょうか。かなりの期間がかかるのではないかと感じます。
(藤崎さん)井波彫刻は基本的に最初から最後まで一人で行います。制作期間は、等身大の作品になると台座等も含めて1年近くかかります。作業の流れとしては、まず図案を作ります。どんな立派な画家の方に描いていただいても、はやり図案は自分で描かなければ彫ることはできません。描きながら頭の中で彫っている感覚で描くのです。そして大作品の場合は、3分の1程度の模型を粘土で作ります。それから木を選び、粗彫りをしてから仕上げていきます。
弟子がいるときは、師匠が粘土原型を作ったり、全体の荒彫りを行い、弟子に仕上げを任せたりします。全体を見失わず保ち持ち続けることが難しく、全体を彫れるようになるには熟練が必要です。細部にこだわって全体を見失わず、最初から最後まで、完成形のイメージを保ち続けることが大事です。形ができてくると、彫るのが楽しくなってきます。
(記者)木はどのように選ばれるのでしょうか。
(藤崎さん)通常は、銘木店で木を仕入れます。大量に必要な時は、岐阜の市場に仕入れに行ったりします。大きい作品になると寄木となるので、
(記者)仏像や人物像以外にも彫られることはあるのでしょうか。
(藤崎さん)岸和田だんじり祭りの
(記者)弟子の方も修行されているのですね。
(藤崎さん)はい、今まで9人の弟子を受け入れてきました。半数以上が女性で、全国から修行に来ます。5年間の修行を終えた人は、独立したり、家業を継いだりされています。最初の弟子は、24歳の華奢な女の子でしたが、男勝りに根気をもって頑張りました。3年後に弟も弟子入りし、今は2人で独立しています。彫刻は誰にでもできると思っています。ただ好きか嫌いか、根気強く続けて行えるかどうかだと思います。
(記者)井波彫刻を受け継いでいくにあたり、取り組まれていることがあれば教えてください。
(藤崎さん)井波彫刻は、日本風の生活様式にあわせて発展しましたが、最近は生活様式が変わり欄間も神棚もなくなってきています。井波は、信仰と木彫りの里と呼ばれていましたが、今は言われなくなり寂しく感じています。日本間を作ってほしいとまではいかなくても、住宅のどこかに日本の生活様式を取り入れていけないか、建築家の方々とも話をしています。井波彫刻共同組合でも、様々なコラボレーションに取り組んでいます。例えば、円谷プロと協力してウルトラマンの顔を彫ったり、楽器とのコラボで龍の彫刻が施されたギターを作ったり、木製のシャンデリアを作ったりしています。木彫の照明器具は、ガラスや宝石とは違う、落ち着いた温かみのある明かりを感じられます。2018年に井波の町が日本遺産に認定されたので、町全体としても海外のお客様に通りを歩いてもらうようにPRをしています。
(記者)井波国際キャンプいうイベントも開催されていますね。2019年は新元号にちなんで「令和の御座」という作品を制作されました。藤崎さんが代表をされ、117名の彫刻家の方々で1つの作品を作られたのですね。
(藤崎さん)国際彫刻キャンプは、4年に1回、オリンピックの前年に開催しています。2019年は、イタリア、ハンガリー、モンゴル、中国と全世界9カ国5大陸から彫刻家が集まり、10日間をかけて14の作品が作られました。訪れる人は作品が彫りあげられていく様子をリアルタイムで見ることができます。作家の文化交流のみならず、作家と見学者の交流も楽しめ、迫力を生で感じられます。「令和の御座」は、新元号「令和」の出典である「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文から引用した「松」「梅」「蘭」「
若い時は、海外の木彫刻キャンプにも参加させて頂きました。チェコやオーストリアでは、丸太から4メートルの風神像を作りあげました。私達は普段、木の皮を剥ぐことまではしないので、最初はどうしようかと話していたら、隣のリトアニアの作家が6、7キロはある鉄の棒を貸してくれたけれども重くて扱えず、チェーンソーで皮を削ったこと思い出します。現地には屈強な男性たちがたくさんいます。東欧も、キリスト教のマリア像を木で彫るなど、伝統的に彫刻の文化があり、木彫の作家が多いのです。彼らは人物を彫り上げるのが上手で、立体感覚が高く、井波彫刻は立体感覚をもっと表現すべきではと感じ、とても勉強になりました。東欧の方の顔はほりが深く、久しぶりに帰ってくると、日本人の顔はすべてどことなく優しく感じました。
(記者)国境を越えても、木を通して作品を作り上げることで通じ合うことができますね。最後に、これからの目標をお聞かせください。
(藤崎さん)個人的にはもっと技術を極めたいと思っています。どこまで磨いても終わりはないと感じています。また、パブリックアートのような彫刻作品にも挑戦してみたいなと思います。今後、日本家屋が復活するかどうかわかりませんが、井波彫刻がこれからも新しい形で存続していくように努めていきたいと思います。
【編集後記】
彫刻という伝統文化は、その地域の人々の想いや生活、信仰が、彫刻という形となって表れているものだと感じました。それは世界どこにおいても変わりません。日本という風土の中で育ったこの文化と技術が、新たな生活の中で人々に受け継がれていっていくことを願います。