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植物を愛し追求した牧野富太郎の生誕160年、ゆかりの地を巡る

4月24日は「日本の植物分類学の父」と呼ばれる、牧野富太郎博士の生誕160年を迎える日だ。94歳で亡くなるまで、日本全国をまわって膨大な植物標本を作成し、1500種類を超える植物の命名を行ったといわれている。来年2023年には、NHK連続テレビ小説で牧野博士をモデルにしたドラマ「らんまん」が放送される予定だ。

生誕160年にちなんで、牧野博士に関連のある土地をいくつか紹介する。

生まれ育った地、高知県佐川町

牧野富太郎は1862年、当時の土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に生まれた。家は酒造業を営む裕福な商屋であったが、小さい頃に両親と祖父が相次いで亡くなり、牧野家の一人子として祖母に育てられる。

10歳頃から寺子屋に通い、寺子屋の廃止後は名教館めいこうかんに移り、12歳の頃には新しくできた小学校に入学するものの、2年後には中退している。もっとも、幼い頃から植物に興味を持ち、家の裏の山に登っては植物を採ったり見たりしていたと自叙伝に記されている。

高知市五台山には牧野博士逝去翌年の1958年に高知県立牧野植物園が開園、1999年には園内に「牧野富太郎記念館」も設立され、植物に関する教育普及と研究活動が進められている。

牧野富太郎記念館の中庭
牧野富太郎博士少年像

50年近く勤め、研究に没頭した東京大学

本格的な植物学を志した牧野富太郎は、1884(明治17)年、22歳の時に上京。その後、東京大学理学部植物学教室に出入りすることを許され、書籍や標本を通して多くの知識を得ると共に、東京近郊で盛んに採集を行った。1893年には東京帝国大学で月給15円の助手の職が与えられたが、既に結婚して子どもを多く持つようになっていた牧野にとって15円は薄給で、暮らしぶりは困窮していた。

東京大学で東京植物学会初の機関誌となる『植物学雑誌』を創刊し、その後日本初の植物誌『日本植物志図篇』の編纂を手掛けるなど、研究活動に邁進するも、教室の教授から長年にわたり圧迫をうけるなど、大変な苦労が多かったことが自叙伝からうかがえる。

1939(昭和14)年に78歳で東京大学を退くまで、牧野は47年もの間、同大学の教壇に立ち続けた。1927年には周囲の声もあり理学博士の学位を受けている。

亡くなるまで30年間を過ごした練馬区大泉

東京都練馬区の大泉は、牧野富太郎が1926(大正15)年から1957(昭和32)年に逝去するまでの約30年間居住した地域だ。1939年に東京大学を退いた牧野は同年、研究の集大成である『牧野日本植物図鑑』を刊行。この本は現在まで改訂を重ね、植物図鑑として広く親しまれている。大学を退いた後も研究への情熱は冷めることがなく、何十年にもわたって収集した膨大な数の標本を整理しながら、日本の植物学のための書籍を刊行しようと日夜働き続けた。

牧野の居宅跡地には1958年に「練馬区立牧野記念庭園」が開園し、今も練馬区の施設として運営されている。4月9日~6月19日には生誕160年を記念して、特別展「植物に彩られた我が人生 ―牧野富太郎を描いたアート絵本『まきのまきのレター』」が開催されている。

練馬区立牧野記念庭園記念館
記念館常設展示室

最後に、牧野富太郎が晩年に書いた詩を紹介する。

終りに臨みて謡うていわく、
学問は底の知れざる技芸なり
憂鬱は花を忘れし病気なり
わが庭はラボラトリーの名に恥じず
綿密に見れば見る程新事実
新事実積り積りてわが知識
何よりも貴き宝持つ身には、富も誉れも願わざりけり
(『牧野富太郎自叙伝』より)

 

どんな困難にも屈することなく、生涯をかけて植物を愛し、新たな事実を見つけ出す喜びで学問を追求した牧野の生き様が浮かび上がる。

多くの物質や情報にあふれ、ともすればひたむきに何かを追い求めることが難しい現代社会を生きる私たちの心に、牧野の人生は鮮やかな印象を与えてくれる。

 

(冒頭の写真は牧野植物園から見える高知市の風景)

 

参考資料:牧野富太郎『牧野富太郎自叙伝』講談社、2004年