[書評]ノーベル賞受賞者・朝永振一郎の探究『物理学とは何だろうか』
本書は、日本で二人目にノーベル賞を受賞した物理学者の朝永振一郎が、タイトル通り「物理学とは何だろうか」という問いかけに真剣に向き合って語った書だ。平易な言葉使いで書かれており、高校生でも十分に読み解くことができる。
序章において著者は、技術という形で現代の生活の中にしみこんでいる物理学という学問を、「われわれをとりかこむ自然界に生起するもろもろの現象――ただし主として無生物に関するもの――の奥に存在する法則を、観察事実に拠り所を求めつつ追及すること」と定義する。
第一章は物理学が確立した16世紀から17世紀のこと。物理学の源流である占星術から一線を画したのは、観察事実から惑星の運動についての楕円軌道の法則、面積速度一定の法則などの三つの法則を導き出したケプラーだった。ガリレオは、斜面での落下運動の実験から物体に力が働かない限りは静止しているものは静止を続け、動いているものはそのまま動き続けるという慣性の法則を発見した。続くニュートンは、ケプラーとガリレオの業績を統合して天体の運動と地上の運動が同一の万有引力の法則に従うことを示したが、著者はここで運動を数学的に明確に記述する微分積分学という武器を彼が発明したことを指摘している。
第二章は熱力学の成立。18世紀になって蒸気機関が発明されて、技術が人間社会を大きく変えていくようになった。熱が機械力を生む過程にどんな自然法則が潜んでいるのかを、カルノーが理想的で可逆な熱機関を仮想し、熱を仕事に変換するには温度差のある熱源二つが必要で、熱機関の最大効率はその二つの温度のみで決定されることを示した。これによって、永久機関は否定された。カルノーの考えをトムソン(ケルヴィン)やクラジウスが発展させて、熱力学の第二法則、何らかの変化を残さずに熱は低温の熱源から高温の熱源へ移ることはできないことを導いた。この法則を数式化する際に、エントロピーという概念が熱量を絶対温度で割ったQ/Tという形で定義された。閉鎖系において非可逆的に増大し続けるエントロピーの正体を探る探求が、原子論の扉を開いていくことになる。
第三章は原子論の成立。近代の原子論は19世紀にドルトンが物理の近縁の化学の実験に着目し、化合物が簡単な質量比で生成される倍数比例の法則を根拠にして提唱したことから始まる。気体の性質を原子論の立場から構成する分子の運動を論じていく気体分子運動論に、マックスウェルは統計の手法を用いて速度分布という概念を導入した。ボルツマンはそれを一般化することによって、エントロピーが状態数の対数に定数をかけたもの k log(W) になることを示した。熱というものの正体を捕らえるには統計学的な手法がなくてはならないものだった。
第三章の最後には「二十世紀への入り口」という小文がある。病室で口述されたもので、これが著者の遺稿である。ボルツマンの理論には実験的な拠り所がなかったのが弱点だったが、アインシュタインが液体中に浮遊する微粒子の不規則なブラウン運動を分子論的に解釈してこれが根拠となった。プランクはボルツマンの手法を学んで、量子力学の元になるエネルギー量子を発見した。物理学が新しい進歩をするときには、いろいろな手法を試し、対象によっては新しい方法を作り上げなくてはいけない。新しいものを理解するためには、今までの考えから脱皮する努力が必要だ。
巻末には「科学と文明」という講演の記録が置かれ、この後に書かれるはずだった著者の考えの一端が示されている。
本書を読んで感じるのは、現象を正確に言語化することの重要さだ。物理学ではそれが数学に当たる。言語化ができれば特殊な状況下でそれが成立するか否かを検証することができ、それによって理論の信憑性をさらに高めていくことができる。実際の現象と整合しない理論は空論に過ぎず、必ず現実の裏付けを得なければならない。
熱という捉え所がなく複雑極まりない現象を解明するための物理学者たちの悪戦苦闘を、著者は第三章で「熱の分子運動論完成の苦しみ」と述べている。複雑極まる現代社会に対処していくためにも、諸問題を明確に言語化していくことが本質を露わにするための最善の方策ではないかと考えさせられた。
『物理学とは何だろうか』(上下)
著者:朝永振一郎
発行日:1979年5月21日
発行:岩波書店
(冒頭の写真はイメージ)
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