[書評]『大気を変える錬金術』 ノーベル化学賞受賞者ハーバーとボッシュの栄光と悲運

本書は大気中の窒素からアンモニアを合成する方法を確立した二人のドイツの科学者フリッツ・ハーバー(1868-1934)とカール・ボッシュ(1874-1940)の評伝である。タイトルが『大気を変える錬金術』とあるように、ハーバーボッシュ法は食料増産を魔法のように可能にした方法である。本書は単なる科学者の伝記にとどまらず、その時代や後世に与えた影響を詳しく記している。

ハーバーボッシュ法とは、1910年代にハーバーの理論的研究に基づいてボッシュが工業的に完成したアンモニア合成法のことで、空気中の窒素を水素と直接反応させてアンモニアを合成するという画期的な技術だ。

窒素はタンパク質の材料となる生物に必要不可欠な元素である。地球上の大気の8割が窒素ではあるが、それを生物が利用できるような形にすることは自然界では稲妻と、マメ科の植物に棲むバクテリアにしかできないことだ。

20世紀の初頭になって、産業革命とそれに伴う衛生状態の向上および医療の発達によって爆発的に人口が増えるようになった。それを支える食料の増産が追いつかなくなり、肥料となる硝石を国々が奪い合うようになった。また、硝石は火薬の原料ともなる重要な物資であった。

フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュ

ハーバーはユダヤ系のドイツ人で、カールスーエ大学の研究者だった。当時のドイツはユダヤ人を比較的寛容に受け入れていて、科学者の20%がユダヤ人だった。ハーバーは窒素と水素を高温高圧下で反応させてアンモニアを得る装置を組み立てようとした。野心家のハーバーはアンモニア生成の技法を完成させるために当時のドイツの最大の化学会社だったBASFの資金援助を願った。1907年7月、ハーバーは生成器のデモンストレーションを行い、2時間で1カップのアンモニアが得られることを示した。

BASFの化学者ボッシュは、ハーバーの実験装置の規模を拡大してアンモニアの量産技術を確立させることに取り組んだ。反応の触媒はハーバーが推奨した希少金属のオスミウムでなく、安価な鉄を主原料とした触媒に切り替えた。600度100気圧という高温高圧にさらされるシリンダー内部の劣化に悩んだが、それをも解決。1911年末には装置の試作品から1日数トンのアンモニアを作れるようになった。ボッシュはライン川沿いのオッパウに世界初の合成窒素工場を建設し、1913年9月に始動させた。

戦争に翻弄された化学者たち

1914年に第一次世界大戦が勃発。愛国者のハーバーは政府の科学顧問という立場で戦争に協力、BASFにアンモニアから火薬原料を作ることができないか問いかけた。ボッシュはアンモニアから硝石を作ることを提案、BASFは政府から助成金を得て軍需産業に組み込まれた。フランスに近いオッパウ工場は空爆を受けるようになり、ライプチヒ近くのロイナに新工場を設立するようになった。

ハーバーはさらに新兵器である毒ガスの開発に着手した。敵に恐怖を与えて心をくじいて戦争を早く終わらせようというのが彼の考えだった。実際にベルギー西部のイープルのこう着した戦線で塩素ガス攻撃の指揮を執った。しかし、敵に恐怖を与えることには成功しても、風まかせの兵器であり自軍も使用した後の前進にためらって、戦機を生かすことはできなかった。

1918年11月にドイツ敗戦。ボッシュはドイツ工業会代表としてベルサイユでの交渉に参加。フランスにハーバー-ボッシュ法の工場を立てることを引き換えに、オッパウ、ロイナ工場の操業を許された。交渉をまとめたことでボッシュはBASFの代表となった。

ハーバーは自分が戦争犯罪人リストに載っていると聞いて妻子を連れてスイスに逃亡。しかしそれは誇張された噂に過ぎず、難を逃れたどころかアンモニア合成法により1918年のノーベル化学賞受賞という栄誉を受ける。

ボッシュは高圧化学を応用して石炭からガソリンを合成することを推進した。そのためには多くの資金が必要であり、ドイツの化学業界を再編した新会社IGファルベンを設立、その社長となった。合成ガソリンはコストが高く、テキサスで油田が発見されて原油価格の下落という苦境に陥り、よりいっそう政府との結びつきを余儀なくされる。そこに1929年の世界恐慌が起こる。そんな最中の1931年にボッシュは高圧化学的方法の発明と開発によりノーベル化学賞を受賞する。

1931年1月、ヒトラーがドイツ首相になる。1933年4月、専門職公務員再建法により非アーリア人の公職追放が宣布される。アインシュタインなど多くのユダヤ人科学者はドイツを離れていった。ハーバーは退役軍人で追放には当たらなかったが、研究所を辞職して抗議した。国外に退去するが高齢と健康状態の悪化、加えて毒ガス開発がたたって満足する職は得られなかった。最期にはパレスチナでのユダヤ人祖国回復運動に共鳴するが、現地に赴くこともできず1934年1月にスイスで心臓発作により死去した。

ボッシュは表向きでは政府の意向通りにしながらも、自社のユダヤ人の従業員を保護するためにできるだけのことをした。しかし政権からにらまれ、会社は彼を実権のない名誉職に押し込めた。ファルベンは完全なナチス化の道を歩み、ボッシュの意と反して彼の夢の工場、ライフワーク全てがナチスの戦争のために使われるようになった。1940年4月、ボッシュは胸膜炎の悪化のため死去した。死ぬ直前にドイツ敗戦を予言していたという。

二人の化学者の悲運から学ぶこと

ハーバー-ボッシュ法は、平時には肥料を、戦時には火薬を空気から作る技術だ。ハーバー-ボッシュ法によって作られた硝酸塩がなかったら第一次世界大戦は一年か二年早く終わっただろうと推測する歴史研究家もいる。また、ナチスの軍需相シュペーアは、連合軍がロイナを始めとする合成燃料工場の破壊だけに専念していたら第二次世界大戦は8週間で終わっただろうと証言している。

一方、ハーバー-ボッシュ法により飢餓の心配は消え去り、肥満が新たな社会現象になった。畑にまかれた化学肥料が湖沼や海で富栄養化をもたらし、赤潮などの生態系の破壊が起こるようになった。窒素酸化物のガスは地球温暖化の一因にもなっている。

どんな科学上の大発見も諸刃の剣であり、その発見者もその影響を完全に予見することはできない。ハーバーとボッシュの二人の化学者は人類の飢餓を回避する偉大な発明を行って栄誉も得たが、時代に翻弄されて愛する祖国からの酷い仕打ちにも遭った。その発明は今も地球環境に大きな影響を与えている。二人の化学者の悲運から学ぶことは今もなお大きい。

『大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀』

著者:トーマス・ヘイガー

発行:みすず書房 

発行日:2017年9月8日(新装版)

(冒頭の写真はイメージ)