江戸への米流通の要 「北前船」西回り航路開通から350周年
東北地方で収穫が始まるなど、今年も新米の季節がやってきた。今も昔も新米は日本人にとって秋の楽しみの一つだ。今年は庄内平野の米を江戸に運ぶ「北前船」の西回り航路が開かれてから350周年。美味しい米を江戸に届けるために、どのような苦労があったのだろうか。
北前船とは
北前船とは、江戸時代に北海道や日本海の港から江戸や大阪に米や魚などを運ぶ役割を果たした「米1千石(150トン)を積むことのできる大きさの船」のことで、千石船とも呼ばれたという。山形県の酒田港では、庄内平野で栽培された米を船に積み込み、江戸や大阪に運んだ。輸送途中では各地の港に寄港し、特産物などを売買して多くの利益を出していたという。
庄内平野から江戸へ米を運ぶ方法はいくつかあり、酒田から船で福井の敦賀まで運び、そこから琵琶湖を経由して大阪、そこからまた船で江戸へ運ぶルートや、津軽海峡を通過して太平洋を航行する東廻り航路もあった。しかし、陸路で運ぶ途中で米の品質が落ちたり、難津軽海峡を通過する際の難破の危険が大きかったりと、新しい航路の開拓が必要であった。
そこで1672年、幕府は江戸の商人・河村瑞賢に最上川流域にあった15万石の幕府の領地の米を酒田から江戸へ運ぶ航路の整備を命じた。瑞賢は佐渡、下関、大阪など10か所を正式寄港地と定め、日本海から瀬戸内海を通って江戸へ輸送する長距離の「西回り航路」を整備したのだ。
西廻り航路を開拓した商人・河村瑞賢
河村瑞賢は1618年に三重県で生まれた。13歳の時に江戸に出たが、ある時、河村は品川付近の海岸でお盆の精霊送りの瓜やナスが多数漂流しているのを発見し、それらを集めて塩漬けにして売り、かなりの利益を上げた…という逸話があるほどだ。その後、材木屋を営み、1657年の江戸の大火の際は木曽の山林を買い占めて莫大な資産を築いた。
江戸の大火の後、江戸では米不足になっており、従来の航路以外の米の輸送方法を幕府の命令で瑞賢が考えることになった。そして1670年に陸奥の米を阿武隈川河口の荒浜(現在の宮城県)から船に載せて房総半島に向かい、相模の岬か伊豆の下田に行き、西南風を待って江戸湾に入るという航路を開拓し、従来よりも輸送日数・費用を大幅に削減した。
その後、1672年には西回り航路を拓いた。このほか瑞賢は、淀川河口の治水事業や越後の鉱山開発の事業にも携わり、出身地の三重県南島町では偉人として銅像が建てられている。
北前船が多く停泊し、たくさんの米を輸送する起点となった酒田港には、今でもその当時、米を保管していた倉庫が保存されており、現役で使用されている。多くの米がここに集められ計量されてから北前船に載せられた。
最近の庄内の米事情
庄内平野のみならず、山形県内では近年新たなブランド米が販売され徐々に認知度を上げている。
2018年に発表された「雪若丸」という新品種。名前の由来はしっかりした粒感や
また「つや姫」も山形を代表するブランド米だ。食味試験ではコシヒカリを上回り、甘味やうまみがあると評価されている。山形県農業総合研究センターにおいて約10年の育成期間を経て、2010年にデビューした。「つや姫」憲章には、「つや姫の誕生は商品開発ではなく価値の創造の事業であり、山形県の文化的象徴」だと表現されている。
古くから米を愛し、主食として大切に守ってきた日本。新米を食しながら日本の米の歴史に思いをはせるのもよいだろう。