9月1日防災の日 過去から学ぶ防災教育や訓練の重要性

9月1日は防災の日 過去から学ぶ防災教育や訓練の大切さ

日本では9月1日を「防災の日」としている。1923年に1万人以上の死者を出した関東大地震が発生した日であり、また、1959年9月26日の伊勢湾台風によって戦後災害の被害を出したことも契機となって、一人一人が災害についての知識を深め、対処する心構えを準備できるようにと1960年に制定された。最近では2011年に発生した東日本大震災の教訓を生かした訓練にシフトしており、東京都立の小中学校や高校では副読本が配布されるなど、防災教育が行われている。関東では近い将来、首都直下地震や東海地震などの発生が予測されていることから、防災意識の醸成が急務とされている。
東日本大震災では、日ごろの備えや訓練の有無によって避難者の生死を分けた場所もあった。突然に起こる災害に備えて、私たちはどのように備えるべきなのか。この記事では、東日本大震災で死者を出さなかった地域の事例から、訓練の重要性や、普段から習慣づけるべき行動について学んでいく。

津波発生時の避難 命を救ったのは?

2011年6月に社会技術研究開発センター(RISTEX)が発行した「RISTEX CT ジャーナル第14号には、東日本大震災での津波発生時に避難行動をとった保育園、幼稚園、小中学校について、4つの事例を取り上げている。

(1)宮城県石巻市の日和幼稚園
地震発生後に園児をバスに乗せて保護者に引き渡した後、バスが津波に飲み込まれ、さらに現場では火災が発生し、園児7名が犠牲になる。

(2)石巻市の大川小学校
避難中に逆流した川に飲み込まれて、全校児童の7割近くの74人が死亡・行方不明となる。

(3)岩手県野田村の野田村保育園
月一回、地震や津波を想定した避難訓練をしており、避難の際は民家の敷地内を通行する許可も住民から得ていたため、震災当時、民家の庭を通る最短経路で一時避難所にたどり着き、園児90人と職員14人全員が無事。

(4)岩手県釜石市の鵜住居小学校
震災の4年前から群馬大学などと協力して津波防災教育を授業に導入しており、震災当日は学校にいた約570人が無事に避難。

報告書では、児童の命を救った理由として(1)地震後すぐに高台へ避難を開始したこと(2)避難訓練を行うなど普段から災害に備えて何らかの対策を行っており、それを災害時に確実に実践したこと、を上げている。一方、犠牲者が出た例では、津波を想定した避難訓練が行われていなかったことや、避難場所があらかじめ決められていなかったことなどが共通している。
特に釜石市は、市内の小中学校で震災発生時に学校にいた約3000人の児童・生徒が全員無事だった。釜石市は、過去の明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波で被害を受けた経験から、高台への移住や、世界一深い防波堤の建築を進めるなどの津波対策を行っていた。また、2004年からは群馬大学と共に防災教育を始めるなど、子供たちへの防災教育にも熱心で、地域の防災意識を高めることができていたことが報告書に記されている。

東日本大震災後に作られた防波堤(大船渡市)

大規模訓練が功を奏す 救助活動の拠点となった遠野市

被災直後の岩手県で、救援活動の後方基地となった市がある。内陸の交通の要である遠野市だ。遠野市では2008年に1万8千人規模の大災害対策演習「みちのくアラート」が行われていた。当時の市長が発案し、陸上自衛隊や警察・消防・消防団などが賛同、沿岸地域9市町村による推進協議会も立てられ、大規模演習以外にも災害を想定した各種防災訓練を実施していた。
実際の震災の際、遠野市はどのような役割を果たしたのだろうか?震災が発生した3月11日当日は遠野市民が炊き出しを行い、毎日おにぎりを届け続けたほか、全国から届く支援物資を遠野市に集積し、要望へ応じて各地へ輸送した。また、陸上競技場なども車両基地や臨時ヘリポートとして開放し、消防の救援隊や全国から集まった医療チームも遠野市に集結した。市長の危機感の元、緊急時の行動指針があらかじめ決められ、訓練が行われていたことで、震災直後から命を救う救助活動を速やかに実施することができたのだ。

未来のための防災意識

防災と一口にいっても、未来を予想することは誰にもできない。しかし、過去繰り返し起きている災害から学び、訓練をすることで、災害発生時にとるべき行動を想定することはできる。岩手県の事例を通して、具体的な防災教育を様々な組織が協力して実施し、広域的に防災に取り組むことの必要性を学ぶことができたのではないだろうか。災害の多い日本で、誰もが防災の意識を持ち、いつか来る災害の時に慌てずに命を守る行動ができるようになることを願っている。

(冒頭の写真はイメージ)