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松下村塾〜吉田松蔭の私塾、松蔭の想いが今も息づく学び舎

吉田松陰の私塾・松下村塾 松陰の想い今なお息づく

2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」として、九州から東北まで8県11市に点在する23の構成資産が世界遺産に登録された。山口県の萩エリアには、萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾の5つの資産があるが、今回はその中の1つ、松下村塾を紹介する。

8畳一間に若者が集う

松下村塾は江戸時代の末期に長州藩の兵学者だった吉田松陰が1857(安政4)年から1858(安政5)に主宰した私塾だ。松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、松陰は28歳の時にその後を継いだ。現在も、萩市内の松陰神社敷地内に当時のまま現存しており、建物の外観を自由に見学できる。

松下村塾、室内(8畳の部屋)の様子
松陰神社の鳥居

松下村塾の建物は木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎だ。当初からあった8畳の一室と、後に学びに来る人々が増えたため松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成る。当時、講義室として使われていた8畳の部屋には松陰の肖像画や石膏像、松陰にゆかりのある人物の写真や机などが設置され、当時の様子を表している。

日本そして世界へ、大きな志を育てる

松下村塾では身分や階級にとらわれず、学ぶ意欲のある者を受け入れていた。松陰は講義よりも討論を重視し、教え子たち一人一人の個性に合わせ、その長所を伸ばす指導をしたという。松陰が松下村塾で教えたのは、わずか1年半という短い期間だった。この間、松陰の下で学んだのは92人。教え子の中には、高杉晋作や伊藤博文、山県有朋など、幕末から明治にかけて日本の近代化において重要な役割を果たした人物が多数いる。

松陰は自身の著書『松下村塾記』に、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。(意味:学問とは、人間はいかにあるべきか、いかに生きるべきかを学ぶことである。これを学ぶ塾の名前に村名をあてた)」と記している。ここからも、松陰が単に知識を得るだけの学問ではなく、志のある人材を育成しようとしたことが伺える。

敷地内にある説明板

実際に建物を訪れてみると、想像以上に小さい、という印象だった。この狭い部屋から日本と世界に目を向け、大きな志を抱いた若者たちが多数育っていったという事実には驚くしかない。萩に住む人たちは、今も吉田松陰のことを尊敬の念を込めて「松陰先生」と呼んでいる。170年経った今なお吉田松陰の願いが息づく学び舎を前に、過去と現在、そして未来に想いを巡らしてみるのもいいだろう。