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萩・明倫学舎 日本近代化の礎を築いた人材を育てた地 

明治維新胎動の地といわれる山口県萩。萩藩(長州藩)藩校明倫館は、新時代を切り開くために躍動し、明治維新後においても政治・経済・産業を主導した多くの人材の育成の中枢を担った地だ。今回はその明倫館の跡地にある観光施設「萩・明倫学舎」を訪れた。

日本近代化の礎を築いた先人たちが学んだ藩校・明倫館

藩校明倫館は享保3年(1718)、萩藩5代藩主毛利吉元の命によって、藩士の鍛錬・育成を目的として設立された。全国12番目にできた藩校で、設備・教育内容ともに全国屈指を誇る規模だったという。「成徳達材」(心を育て才能を伸ばすこと)を掲げ、高杉晋作、桂小五郎などの多くの人材を輩出し、吉田松陰もここで教鞭をとっていたことがある。

文武振興に注力し、和漢洋の学問を学び、初等から高等専門教育までを行う藩校で、広大な的場や日本最古のプールといわれる水練池も備えられていた。当時、他の藩校では珍しかった医術や化学を学ぶ環境も整っていて、今でいう総合大学と遜色ない設備が江戸時代の長州藩には備わっていたといえる。

藩主吉元は明倫館の入学者を藩士に限らず、百姓町人にも講義の聴講を許可したが、このことは身分制度の厳しい時代背景を考えると画期的なことで、萩藩の先進性をみることができる。

また、萩藩の開明性は第13代藩主毛利敬親のあるエピソードからもうかがえる。敬親は、どんな家臣から何を提言されても「そうせい」と承認したことから「そうせい候」と呼ばれたという。敬親は家柄や年齢にこだわらず、自分と大きく年の離れた下級武士の息子だった吉田松陰の才能を評価して重用した。吉田松陰は当時11歳で「武教全書」の御前講義を行ったというから驚きだ。

1849年13代藩主毛利敬親が現在地に移転拡大してできた新明倫館の正門

藩校の修業規則にあたる「文学諸武芸稽古の式」には「文学は幼時より勉強しないと成就しがたい。そこで10歳前後から素読を始め、15歳前後から専ら文学に志し、身体が壮剛となるに及んでさらに武芸をめざし、文武共に40歳までは修業することが大切である。文武を志す者は、講堂及び諸芸稽古場で怠りなく勉強し、講義を聞こうとする者は、老少の別なく列席させる。」との文言が掲げられ、後々まで長く強調された。これが幅広い人材の育成を行い、力ある藩士を輩出した基礎となったといえるだろう。

萩・明倫学舎本館。藩校明倫館跡地に1935年に立てられた木造2階建ての小学校校舎

元明倫小学校の校舎にできた新たな観光拠点「萩・明倫学舎」

全国屈指の規模を誇った、萩藩校明倫館。その跡地に開校した明倫小学校の校舎を改修・整備して2017年にオープンしたのが現在の観光施設「萩・明倫学舎」だ。

萩・明倫学舎は本館と2、3・4号館から成る。本館には萩藩校明倫館の歴史などについての各種展示や観光インフォメーション、飲食スペース、2号館には2015年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」と幕末維新機の歴史・科学技術史の実物資料を展示する「幕末ミュージアム」、そして3・4号館には市民ギャラリーなどの交流施設などがある。

旧明倫小学校では2014年3月まで授業が行われ、全児童が毎朝「志を立ててもって万事の源となす」などの吉田松陰の言葉を朗誦するなど、地域の特色ある教育が行われていたという。

当時先進的だった明倫館の教育は現代から見ても学ぶところが多い。多くの先達が志を立てたその場所に、一度足を運んでみる価値は大きいだろう。

萩・明倫学舎の入口

旧木造校舎の趣が残る2号館内観

幕末期に長州藩が幕府に隠して英国に派遣した5人の藩士“長州ファイブ”と記念写真が撮れる撮影スポット

世界遺産ビジターセンター」と「幕末ミュージアム」を有する2号館の入口

参考:萩・明倫学舎ホームページ

https://www.city.hagi.lg.jp/site/meiringakusha/