台湾の農業と経済発展に貢献した日本人研究者・磯永吉
台湾の最高学府とされる国立台湾大学。1928年の日本統治時代に、前身となる「台北帝国大学」が創立され、日本の敗戦後は中華民国政府によって国立台湾大学となり、現在にいたる。
大学構内にある農業試験場には、「蓬莱米の父」と呼ばれた日本人・磯永吉(1886-1972)の研究室が今も残っている。戦前の台湾において稲の品種改良に従事し、台湾の農業と経済の発展に貢献するとともに、日本全土の米不足解消にも貢献した人物だ。45年もの長い歳月を費やし台湾で農業の発展に尽力した、その業績をたどる。
磯永吉は1886年、現在の広島県福山市に生まれる。札幌農学校(現在の北海道大学)を卒業した翌年の1912年に、台湾総督府農事試験場技手として台北に赴任した。その目的は、台湾の農作物の品種改良、特に稲の品種改良だった。もともと台湾では粘り気が少なくパラパラとした食感のインディカ米が栽培されており、粘り気のあるジャポニカ米を好む日本人の口には合わなかった。そのため、日本に出荷された台湾米は日本国内の米の半値でしか売れなかった。
そうした中で磯は、同僚で「蓬莱米の母」と呼ばれる末永仁(1886-1939)とともに、1000を超える品種の交配を試み、新たな品種の育種に取り組んだ。交配による新品種の育種は、非常に忍耐のいる作業だという。優れた特徴をもつ品種の雌しべに別の優れた特徴をもつ品種の花粉を付着させる。優良品種として認定されるためには、収穫量が多いこと、風による倒伏がしにくく、病虫害への耐性が強いこと、何より米の味が消費者の嗜好に合うことなど、さまざまな条件を備える必要がある。暗中模索の中で交配実験が繰り返され、ついに1927年、蓬莱米の代名詞となる「台中65号」の育種に成功した。
「蓬莱米」とは、磯・末永の二人によって作り出された日本型の米の総称だ。台中65号の登場により台湾における蓬莱米の生産は急速に拡大、収穫量も高いことから米作農家は経済的に豊かになり、台湾農業の発展に大きく寄与した。
磯は1928年に総督府技師との兼任で台北帝大の助教授に任ぜられ、30年には教授に就任している。現場第一主義の磯は、「私の研究する場所は教室ではなく、台湾全土にある」と話し、研究室に閉じこもることなく台湾全島に足を運び、蓬莱米の普及に勢力を注いだという。磯の教え子には台湾人学生もおり、戦後の台湾における農業政策を推進していく貴重な人材が輩出された。
磯は1945年の敗戦後も国民政府による「留用」という形で台湾に留まり、台湾大学農学部の教授を続けながら農林庁技術顧問として台湾全土を廻り農業指導を行った。また、それまでに発表していた論文を「亜熱帯における稲とその輪作作物」としてまとめ、英訳することで、台湾だけでなく東南アジアでの米作りにも活用できるようにし、大きな影響を与えた。
磯の研究室は「磯小屋」という通称で現在も残され、建物内の展示室には、稲の標本や昔の農学計器、当時の実験記録などの資料が展示されている。現在台湾で栽培されている蓬莱米の品種には、「台中65号」の遺伝子が受け継がれているという。米を通じた日本と台湾の結びつきを知ることで、台湾にもっと親しみを感じたり、台湾における日本の統治について新たな観点を得るきっかけになるのではないだろうか。また、地道な努力と実践を続けながら成功を治めた先人の姿から、多くの学びを得ることができる。