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台北の都市計画と建築を巡る

自然豊かで多様な気候の台湾

人口2300万人、日本の10分の1の面積の島国、近年は半導体を中心にIT産業も成長著しい台湾。台湾には3000mを超える山々が縦に連なり、河川が東西、南へと流れ、南部の平野には農業地帯、台北、台中の盆地には都市が広がっている。高山性気候から亜熱帯雨林気候まで、幅広い気候が広がり、南からの暖流と北からの寒流、東の黒潮と、様々な要素が多様な風土をもたらしている。

台北市の都市計画

台湾の首都である台北市は250万人が住む政治経済の中心都市だ。西に淡水河が流れる台北盆地であり、元々原住民族と漢人の移住者が住んでいた街に、17世紀スペインやオランダが淡水河を訪れたが、清国統治時代にも台北盆地には荒野が広がっていた。19世紀後半から開発が進み、1884年に台北城が建てられ、日本統治時代に入る。

当時の台北市の人口は7万人程度、1905年に都市計画が発布され、城を撤去した城内地区を市街地として整備、片側3車線の「三線道路」が設けられた。上下水道が整備され、東に市街地、北に新興住宅地が広がっていった。1944年には人口40万人、1932年に道路の拡張や公園の整備を重視した「大台北市区計画」が作られたが、戦争により中断され、戦後に引き継がれた。

淡水河の夕陽

台北の歴史建築

第4代総督の児玉源太郎は、民政局長に後藤新平を起用し、インフラ整備を進めた。後藤は若い人材を採用し、台湾の気候風土に合った新しい建築が建てられていった。台湾の建築は、風通しを重視し、高床構造や台湾式アーケードが使われ、様式も和洋中の折衷様式となっている。台湾では1990年代後半より、文化財保護の意識が高まり、歴史建築の保存やリノベーションがされ、新しい文化創造空間として整備されるようになった。「台湾」のアイデンティティを模索しながら、社会の活性化や交流を促し対外的に発信していく要となっている。

(1)国立台湾大学

台湾北部の台北に位置する国立台湾大学。その前身となる台北帝国大学は1928年に設けられた、日本で7番目の帝国大学だった。構内中央にヤシ並木が通り、北に文政学部、南に理農学部がつくられた。東京駅や東京帝国大学を設計した辰野金吾の元で学んだ井出薫等が設計にあたった。現在も構内の多くの校舎は当時の建築が使用されており、市民の公園ともいわれる池や芝生が広がった緑豊かな場所である。

台湾大学の正面校舎

構内を貫くヤシ並木
日本統治時代の建物が各所に残る

(2)国立台湾博物館

台湾唯一のギリシャ洋式建築で、元台湾総督府博物館である。
台北市に残る日本統治時代の建築は、展示施設や商業施設、公共ホールなどに使用されている。

入り口ホールのステンドグラス

(3)台北101

台北市のランドマークである台北101は、2004年に台湾の建築家、李祖原りそげんによる設計で建てられた。当時世界一の高層ビルで、強風対策の技術や省エネを考慮した外壁を採用し、デザインには中国的な要素を取り入れている。縁起が良いと言われる「竹」をイメージした8つの節、古代中国の古銭や龍を表したオブジェが外壁につけられ、金運や商運を呼び込むデザインとなっている。過酷な歴史の中で躍進を成し遂げてきた台湾を象徴する建物といえるだろう。

台北101の夜景