[書評] 『化学と私』ノーベル賞科学者福井謙一が語る科学と化学
福井謙一(1918-1998)は、1981年に日本でそしてアジアで初めてのノーベル化学賞を受賞した。福井の提唱したフロンティア軌道理論は、化学反応の理論的解明を量子力学を用いて行おうとするものであり、従来はあまりにも複雑で実験に頼るしかなかった化学反応に対して、理論的に数値計算を用いて解明する手法を与えた。
本書は福井のノーベル賞受賞と京都大学退官を記念してまとめられたもの。ノーベル賞記念講演などを含むが、版元は専門書を刊行している出版社であり、かなり読みごたえがある内容であった。
福井が高校生の時、父親が遠縁の京大工学部工業化学科の喜多源逸教授に進路の相談をしたところ、「数学が好きなら化学をやるのにもってこいだから自分のところに寄こしたまえ」と言われて化学の道に進む。経験に頼るしかなかった化学に飽き足らず、当時勃興してきた量子力学を学び、それを化学に生かす方法を模索した。工学部燃料化学科、後に石油化学科という講座に属しながらも、化学反応を量子論的に解明する研究を行った。
福井の理論は、多数ある電子のうち最前線(フロンティア)にいる電子のみが化学反応に関与するというものだ。例えば、ベンゼン環が二つつながってできたナフタレンにおいて、ベンゼン環のどの部分が反応しやすいかが、フロンティア軌道の広がりが大きい場所と一致した。これは従来の量子力学を考慮しなかった理論では解明できなかったことである。
ノーベル賞の共同受賞者である米国のロアルド・ホフマンも独自に量子化学的手法で化学反応の法則を見出した。ホフマンの研究により福井の研究がより広く知られるようになった。
福井の科学技術に対する考え方は現代の状況をかなり見通したものだった。資源や環境の保全のために早晩規制を強化しないといけないが、その転換を成すためには科学技術、特に化学が必要だ。従来の石油化学に対して、将来の化学工業は炭酸ガスやメタンのような基本的なものから出発しないといけなくなると予想したが、実際にそうせざるを得ない状況になった。また、化学の周辺、物理学や生物学との重なり合った分野に先端的な領域が存在する。先端的な領域ほど基礎的な知識が直ちに技術化されて、科学と技術が互いに干渉しあって自触的に発展していくようになる。
若い研究者に対しては、好奇心だけで学問をする時代は過ぎたから、自分がやっている研究に社会的にどんな影響があるかまで考えてほしい、と述べた。さらに、若い人には鋭い先見性と広い視野を持ってほしいと期待を寄せたが、福井自身の言説からこそ、先見性と広い視野に基づくバランスのよさが感じ取れた。
資源や環境の問題が深刻化する中で、福井の視点は今なお的確であって未来の指針となりうる。次世代の研究者が福井の言葉を受けて、広い視野と社会への責任感を持って研究を探求していくことを願う。
『化学と私 : ノーベル賞科学者福井謙一』
著者:福井謙一
編者:山邊時雄
発行日:1982年5月25日
発行:化学同人
(写真はイメージ)