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戦時下ドイツでチフス治療に献身 肥沼信次を題材に公演

今年、市制100周年を迎える東京・八王子市。この地域を中心に活動しているおもてなし国際協議会が13日、演劇公演「ピースフェスタ2017 平和のメッセージ~過去から未来へ~」を開催した。公演のテーマは、戦時中のドイツで発疹チフス治療に尽力した同市出身の医師・肥沼信次(こえぬまのぶつぐ、1908~46)。八王子市は今年7月、この肥沼医師との縁でドイツ・ヴリーツェン市との海外友好交流都市の協定を締結するという。

東ドイツで発疹チフス治療に尽力

第1部の創作劇「冬桜のリーベ」では、肥沼医師が戦時中にドイツへ留学し、異郷の地で病死するまでの姿を描いた。肥沼医師は1937年、アインシュタインに憧れてドイツに留学。ベルリン大学(現・フンボルト大学)で放射線医学の研究に没頭したが、戦中戦後の混乱に巻き込まれる。1945年、医師が不足する中、東ドイツのヴリーツェンで伝染病医療センター長に就任。まん延した発疹チフスの患者の治療に尽力するも、自らも発疹チフスにかかり、帰国かなわず1946年に37歳の若さで病死した。

創作劇中では、誰にも送られなかった手紙に書かれた心境を、現代を生きる“弟の孫”が目にする形で始まり、戦時中を生きた肥沼医師の人生から現代の若者に通じる普遍的なメッセージが描かれた。

肥沼自身が実際に記した言葉は多く残っておらず、主に家族や大学の同期生、ドイツで交流のあった人々の証言によって、その人となりが伝えられている。ヴリーツェン市には肥沼医師の偉業をたたえ、その功績を記した顕彰碑や墓碑が作られおり、1994年にはヴリーツェン市の名誉市民に認定された。「コエヌマのおかげで自分が生きている」と今なお人々の尊敬の対象になっているという。

肥沼医師の生き方に共感

第2部の講演では、市民団体「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」代表の塚本回子かいこさんと、肥沼医師と同じフンボルト大学を卒業後ドイツで22年間を過ごしたライターの荒井剛さんが、肥沼医師の生涯について語った。

肥沼信次医師を題材に演劇 日本とドイツつなぐ架け橋

塚本さんは肥沼医師について「彼が尊敬したアインシュタインの『誰かのために生きてこそ人生には価値がある』という言葉を体現した人」と表現。東ドイツでの情報はベルリンの壁崩壊まで国外に出ることはなく、肥沼医師の消息は43年間、家族にさえ知らされることはなかった。母親は息子である肥沼医師を探し続けたが、消息を知ることなく他界したという。塚本さんは「情報が途絶えることは恐ろしい。そのようなこと(戦争)があってはならない」と平和への思いを伝えた。

荒井さんは、肥沼医師が自分の命を顧みずに患者を救ったことについて「なぜそこまでできるのか、ということが皆の関心だと思う」と投げかけた。自身の経験から「自分にとって、ベルリンという町は生きる喜びを教えてくれた場所だった。自分が生かされてこそ命をかけられる。肥沼さんにもそういったものがあったのではないか」と心境を推し量った。

塚本さんは肥沼医師が患者を治療した期間が、センター長就任後のわずか半年の間だけであったことに触れ、「それにもかかわらず、ヴリーツェン市の人々は今も彼を尊敬し、彼のおかげで自分が生きていると感謝している。偉業というのは活動期間の長さだけでは語れないのだと感じる」と結んだ。

この公演を企画したおもてなし国際協議会は、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、日本人が忘れかけている裏のない真心のおもてなしについて考え、伝える活動をしている。代表の長野岩雄さんは、今回の公演にあたって「この時代の肥沼信次が現れることを願って企画した」と話し、海外公演など今後の活動への意気込みを語った。

肥沼信次医師を題材に演劇 日本とドイツつなぐ架け橋

 
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