11月5日は津波防災の日 被災地の今
11月5日は津波防災の日。これは2011年3月11日の東日本大震災での凄惨な津波被害を受けて、同年に制定されたものだ。なお、11月5日という日付は嘉永7(1854)年にあった安政南海地震(M8.4)の日。このとき和歌山県を津波が襲い、その際、村の庄屋が刈り取ったばかりの稲の穂に火をつけて村民を高台に避難させ、命を救ったとされる『稲むらの火』の逸話にちなんだ日だ。
まだ私たちの記憶に生々しい東日本大震災から6年が経つ。現地の様子はどうなっているのか、筆者は今回初めて被災地を訪れた。
東日本大震災の翌年から、筆者の母は毎年被災地に足を運んでいる。出身地でもなく自身と特別深い結びつきがあるわけでもない被災地に、母が年に一度必ず出かけていくことを不思議に思っていた。今年はそんな母に誘われ、筆者自身も初めて被災地に行くことになった。そこで母がなぜ毎年行くのか、その理由の一端を現地で垣間見ることになった。
津波に襲われ、町が消えた南三陸町
最初に訪れた宮城県本吉群南三陸町は、23メートルの津波に襲われた地域だ。およそ700世帯が暮らす町があったというその場所は今はほとんど更地となり、町は姿を消していた。
移動中にタクシーの運転手と少し話をした。以前住宅地だったという場所は、見渡す限り工事中の盛り土だった。あれから6年以上が経過したその場所は、工事中の場所が多い。盛り土の場所は道路になるという。もともと住宅地だったその場所は住宅地としては再生されないのだと聞いた。「どうしてですか?」と尋ねると、それまで饒舌に話してくれていた運転手が少し黙った。そして言葉を選びながら、しかし穏やかにこう言った。「ここは遺体の漂着地なんですよ」。
「復興」という言葉から、私たちは元の姿に戻ることを連想するが、事実上町は消え、被災した人たちは別の場所に町ごと移るか、または分散して復興住宅へ入居しているという。町は元の姿に戻るのではなく、違う姿へと変貌を遂げていた。
閖上で出会った人々
次に向かったのは宮城県名取市
その男性は被災地を案内しながら、とにかく親切にもてなしてくれたのだった。とれたての大きなホタテを焼いてくれたり、海鮮丼をいくつも買ってきてくれたり、お腹がいっぱいで何も食べられなくなるまでごちそうしてくれた。その男性は、被災地を訪れる人たちを案内し、変化していく被災地の様子を写真に撮り続けているのだと聞いた。本人にとってもつらい記憶と毎日向き合っているはずなのに、彼はとても元気で、そして私たちに対して思いやり深かった。ほかにも現地で出会った人たちは皆、東京から来たと言うだけで「来てくれてありがとう」と言っては、とても温かく接してくれた。そして知らず知らずのうちに、被災地の人たちから筆者自身が力をもらっていることに気づいた。
母と被災地、そして自分
1万5893人が亡くなり、2553人が行方不明となった東日本大震災。地震と津波被害によって、一瞬で日常生活や愛する人を奪われた人たち。6年経った今も残る大きな傷跡と痛みとともに被災地の人々は生きている。6年間、被災地に出かけ続けていた筆者の母は、そこにささやかな関心を持ち続け、いつしか被災地の人々と痛みを共有するようになっていたのだと気づかされた。「愛の対義語は憎しみではない、無関心だ」と言った人の言葉を思い出した。関心を持つこと、当事者たちの痛みに寄り添うことが、震災の悲劇からから立ち上がろうとしている人々のささやかな力になれることを願った。帰りの東北新幹線の中で、来年もまた来ようと思った。
海へ行くと、もともと海水浴場だったという場所に、根元だけ残された木や曲がった鉄柵がバラバラと残されている。(仙台市若林区荒浜地区)