リカバリーカルチャーって何?(2)先進国・米国に依存症治療施設を訪ねて【後編】
リカバリーカルチャーに大きな役割を果たしている依存症者の自助組織AA(アルコホリクス・アノニマス)。AA創始者のひとり、ビル・ウィルソンは絶望の淵で神を感じるという強烈な体験をした。そしてそれが彼の回復のきっかけとなった。
解説:垣渕洋一 成増厚生病院・東京アルコール医療総合センター長 専門:臨床精神医学(特に依存症、気分障害)、産業精神保健 資格:医学博士 日本精神神経学会認定専門医 |
「自分の経験を仲間たちに伝えたい」
ビルは医師が処方した薬も服用していたので、平常の感覚に戻った後、「薬によって引き起こされた幻覚ですか?」と主治医(シルクワークス博士)に質問した。博士は、「それは宗教的な回心が起こったためかもしれない。そして、そのような強烈な体験によって、依存症から回復する場合がある」ことを伝えた。その日以来、ビルは生涯飲酒しなかった。とはいえ、断酒が安定するまでには年単位の時間がかかる。当初は強烈な飲酒欲求に悩まされた。一方、ビルは自分が経験したことを依存症の仲間に伝え、彼らを助けたかった。それが自分が生涯かけて行うべき使命だと決心したからだ。そして彼らにメッセージを伝え助ける時には、みごとに飲酒欲求が起きなかった。
回復した1人が次の1人を救う
そしてビルは1935年5月、AAのもう1人の創始者であるドクター・ボブに出会った。ボブは一旦は外科医として成功を治めたが、連日の大量飲酒のため仕事を失いかけていた。会うなり意気投合した2人は5時間も語り合った。ボブはビルの講義を聞き、「初めて、アルコール依存症とは何かについて本質を知っている人と出会った」と感銘を受け、断酒を開始した。後になってAAはこの日、ボブが最後の一杯を口にして断酒を始めた日、1935年6月10日を創立記念日と定めた。
2人は共同創始者として精力的に仲間を助け続けた。各地で開かれるミーティングの数が増え、メンバーの数は1937年に40人、1940年に2000人、1941年に8000人、1955年には13万人を超えた。
爆発的に成長する組織ゆえの悩みも多々あった。活動方針をめぐっての仲間割れ、メディアからの批判、運営資金の確保をめぐる問題などなど。これらを乗り越えて1938年、アルコホーリク財団が設立され、1954年にはAAゼネラルサービスオフィス(ニューヨーク市認定の財団法人)に移行した。ここから海外への展開が始まり、1957年には世界70カ国でメンバーの数は20万人を超えた。
失敗した仲間をあたたかく迎え入れる
ビルとボブに続いて回復した人達は当初、自分がなぜ断酒できたのか、なぜ飲まないで生きる方が幸せだと思えるようになったのか、よくわからなかった。ボブはビルのような衝撃的な体験はしなかったし、ビルのような体験をしても、断酒できなかった人もいるからだ。そのため、どのようなメッセージを伝え、どのようにミーティングを行うのか、試行錯誤が繰り返された。
成功した方法を全体で共有することを繰り返し、1940年代になると、成功するための原則がまとめられるようになった。その1つの重要な原則が「スリップして戻ってきた仲間を、非難せず、あたたかく迎えて、包み込んであげる」ことだ。
依存症が進行してくると、「わかっちゃいるけれど止められない」状態に陥る。「これで最後にしよう」と決心しても、繰り返し飲酒し、そして問題が起きる。自分の行動が引き起こすトラブルの悲惨さもさることながら、自分自身を信じられなくなることに起因する絶望感、自信喪失、そしてそのことで受ける傷の深さは強烈だ。
一般社会では、だれかが約束を破ったり迷惑行為をすれば、非難されるのが当然だ。その中で依存症者も周囲から非難され続ける。そしてその辛さに耐えかねて、自殺する人も後を絶たない。
だから、失敗してもあたたかく迎えられる経験を初めてした依存症者は、よい意味での衝撃を受ける。筆者も実際に回復の過程にある患者と接していて、「生まれて初めて人のあたたかさに涙した」「自分のような人間も存在していていいんだと思った」「言い尽くせないぐらいにありがたくうれしかった」といった話をよく聞く。そしてその経験をした人たちは、後から来る仲間に対しても自分がやってもらったように接してあげるようになる。このような「順繰りのお返し」によって、この原則は、リカバリーカルチャーの伝統の1つとして受け継がれてきた。
失敗した人を非難せず、再び挑戦しようとする人を賞賛し、助けようとするリカバリーカルチャーが広がって行くにつれ、社会的に大きな成功をおさめたような人たちの中にも依存症となり、そこから回復するケースがあることが知られるようになっていった。
次回は、そのような人たちの回復の物語を紹介したい。
(写真はイメージ)