ベルリンの壁崩壊から30年目の「ベルリン 東ドイツをたどる旅」
10年前の2009年、ベルリンの壁崩壊から20周年というタイミングで『ベルリン 東ドイツをたどる旅』という本を上梓しました。筆者である私自身が1990年9月から1年間、統一前後のベルリンの東側に暮らした体験をベースに、ベルリンで東ドイツの痕跡探しをするという内容の本です。そして今年、それからさらに10年の時が経ちました。
ベルリンの壁崩壊から30年。つまり、当時生まれた子どもたちが今年で30歳になり、今では社会を担う世代となっているということです。少しずつ薄れゆく、当時の記憶と東ドイツ時代の名残。今回はベルリンの壁崩壊から30年目を機にもう一度、ベルリンの「東ドイツ」をたどってみたいと思います。
オーバーバウムブリュッケ
19世紀末に建てられたこの橋は、シュプレー川をはさんで西ベルリンと東ベルリンの間にかかっています。ベルリンの壁に各国のアーティストがペインティングした有名なアート空間「イーストサイドギャラリー」は、この橋の脇から始まっています。
ベルリンの壁が建てられてから崩壊するまでの1961~1989年の間、この橋の上を通っていた地下鉄は遮断され、徒歩でのみ通過することのできる「国境通過地点」として機能していました。
ちなみにこの橋がかかっているシュプレー川は東ドイツの水域だったため、西の人たちは泳いだり釣りをしたりしてはいけなかったのだそうです。
Oberbaumbrücke
【最寄り駅】Warschauerstr.(U1)
テレビ塔と世界時計
1969年、米国宇宙飛行士による人類初の月面着陸に西側諸国が沸いていたその同じ年に、東ベルリンのテレビ塔は完成しました。その近未来的な外観は、当時東ドイツが夢見ていた社会主義の明るい未来の象徴のように見えます。
テレビ塔の全長は368メートル。東西ベルリンを見渡せる展望台は、今も高い人気を誇ります。かつて東ドイツの子どもたちにとって、テレビ塔の展望レストランでアイスクリームを食べるのは、とても特別なことだったそうです。
そしてテレビ塔の足元にあるのが、テレビ塔と同い年の世界時計。旅行の自由が制限されていた東ドイツ人にとって皮肉な感じがしますが、世界各国の時刻が分かる仕組みになっています。
Fernsehturm
Panoramastraße 1A
D-10178 Berlin
【最寄り駅】Alexanderplatz (S/U)
https://tv-turm.de/
地下鉄幽霊駅
ベルリンの壁ができる前、東ベルリンと西ベルリンの間は、ごくふつうに行き来することができました。東に住みながら西の職場に通うことが可能だったわけです。
しかしそれも、ベルリンの壁の出現によって断絶されてしまいます。東西両方の地区にまたがって走っていた地下鉄も同様でした。
西から東を抜けて、再び西へと走っていたU6とU8のふたつの地下鉄は、東地域の区間にあった駅がすべて閉鎖されました。しかし、地下鉄そのものは西ベルリンの人たちを乗せて走り続けていました。これらの閉鎖された駅をすべて通過して。
ベルリンの壁崩壊後、これらの閉鎖されていた駅はすべて復旧しましたが、28年間閉鎖空間だったこれらの駅には、そこはかとなく不気味な独特の空気が漂っています。
ベルリンの壁が崩壊した2日後に、最も早く復旧したかつての「幽霊駅」。地下鉄のヤノヴィッツブリュッケ駅
家族経営のパン屋
ユネスコ無形文化遺産にも登録されているドイツのパン文化。しかし、そんなドイツでも、昔ながらの家族経営のパン屋の数はめっきり少なくなりました。
東ドイツ時代、従業員数が10人以下の家族経営企業は、国営化を免れて自営を続けることができました。そのため家族経営のパン屋は旧東ドイツ地域に、今も結構残っているのです。
東ベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区にあるパン屋「ベッカライ・ジーベルト」は1906年の創業。2度の世界大戦と東西分断時代を生き抜き、今も小さなお店の奥の工房で、手作業でパンを作り続けています。市民の暮らしとともに生きてきた街のパン屋さん。このお店は自体が小さな文化遺産です。
Bäckerei Lars Siebert
Schönfließenstr. 12
10439 Berlin
【最寄り駅】Schönhauser Allee(S/U2)
時代が移り変わっても、小さな店と工房でパンを作り続けてきたベッカライ・ジーベルト
(in association with the GNTB/協賛:ドイツ観光局)