[書評]『生命とは何か』ノーベル賞受賞 物理学者シュレーディンガーが挑む生命の秘密
量子力学を築いた理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961年)の晩年の業績である本書は、物理学の視点で生命の秘密に真っ向から切り込んでおり、発行から80年近くの時を経た現在でも刺激を受ける内容だ。1943年にダブリン高級学術研究所の主催で行われた公開連続公演が元になっており、翌年にその内容がまとめられた。
著者のシュレーディンガーは1887年にオーストリアに生まれ、ウィーン大学卒業後に独フンボルト大学、英オックスフォード大学などに所属する。量子力学の分野で物質の状態を確率の波動で記述するシュレーディンガー方程式を提唱し、1933年にノーベル物理学賞を受賞した。また量子力学での観測を巨視的にしたときに生じる矛盾を示した「シュレーディンガーの猫」の思考実験でも知られる。
量子力学の直接的な始まりは、黒体放射の分光輝度に量子仮説を導入したマックス・プランクが1900年に発表した論文であった。シュレーディンガーは、遺伝学においてメンデルがエンドウ豆の交配実験によって1866年に発見した遺伝の法則が、3人の研究者によって再発見されたのがマックス・プランクの論文発表と同じ1900年であったことを指摘し、量子力学と遺伝学という二つの偉大な理論が時を経て成熟したから両者を結びつけることができた、と述懐する。
本書の前半は遺伝を司る染色体繊維の構造に物理的な手法から迫っていく。著者はそれを「非周期的結晶」と呼んでいる。物理学で扱うのは「周期的結晶」がほとんどであり、それとは全く異なるものである。非周期的結晶は、数量的には統計学的な取り扱いなどできない少数個(千個以下)の原子からなり、極めて頑丈で何代もの世代交代があっても遺伝情報を維持し続ける。著者はその正体をタンパク質と想定していたようだが、実際にはDNA(デオキシリボ核酸)であった。
そんな頑丈な遺伝子においても、突然変異というものが時には起こることが知られている。起きた時は遺伝子の配列の中の一個だけが変異し、その変異した遺伝子もそのまま子孫に遺伝する。突然変異はX線を照射することによって自然界で起こるものの数十倍に増加させることができる。
著者はこの突然変異の不連続性を遺伝子の分子の配列状態が別のエネルギー準位を持つ異性体に遷移した量子飛躍によるものだと解釈する。元の分子も組み替えられた異性体の分子も両方とも安定構造となる。これらのことにより遺伝子の「非周期的結晶」は、比較的少数個の原子からなるが熱運動の振動には長期間に耐えることができ、原子の配列変えにより異性体的分子に変わる不連続変換のみを行うと結論付けられた。
後半において、一般の物理現象は必ずエントロピーが増大して熱力学的に無秩序な平衡状態に至るのに生物はそこから免れていることに対して、生物は負のエントロピーを食べて生きているからだと著者は述べている。エントロピーは無秩序さを表すので、負のエントロピーは秩序ということになる。
高等動物の食べる様々な有機化合物である食料は秩序が高い栄養素を含むものであり、それを利用すると消化・吸収を経て、ずっと秩序の下落した排泄物に変わる。そうしたものでも植物ならまだそれを利用できる。生物は生命を維持するためにどうしても作り出さざるを得ないエントロピーを体外に捨てているということになる。
終章では、生物における物理法則は今まで研究されていた物理法則とは異なるが、働き方は全然違っていてもやはり自然界の同じ法則であり、生物体の中で行われている新しい型の物理法則を見出す準備は既にできていると述べられている。
本書がその後の分子生物学を拓くきっかけとなり、1953年にワトソンとクリックがDNAの二重らせんの分子模型を提唱するようになった。
ある分野の第一人者がその視点を持って他の分野に切り込むというのは実にスリリングなことである。全てのものを包括する統一的な知識を求めようとする学問が、多種多様に広がったがために、一人の人間では一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することが不可能になったという矛盾。それを切り抜けるためにシュレーディンガーがやろうとしたのは、学問の分野をまたいで総合する仕事に思いきって手を付けることだった。その熱意が新しい分野を拓くきっかけになったというのも十分にうなずける。
エピローグでは、人間も含む生物を物理法則による時計仕掛けと考えると人間の自由意思はどうなるのかという哲学的な問いかけもある。それをも含めて「生命とは何か」を改めて考えさせられる書だ。
『生命とは何か』
著者 エルヴィン・シュレーディンガー
副題 物理的にみた生細胞
原著 1944年
岩波文庫 2008年5月16日
(冒頭の写真はイメージ)