【特集】「熊本地震」被災日記(2)避難所生活で水・食糧の問題に直面
前震と本震を経て、避難所での生活が始まった。震災そのものを生きて乗り越えても、次に乗り越えなければならないのが、水や食糧といった物資の不足だ。
4月16日土曜日 AM6:00 「水が、ない」
本震が起こってから、ようやく夜が明けた。
私がいた中学校は避難してきた人でいっぱいになっていた。
断続的に余震が続いていたため、不安で自宅に帰れず、多くの人が避難所に残っていた。
私たちが最初に直面した問題は飲料水だった。
市内ほとんどの地域が断水しており、スーパーやコンビニなどの飲料水は1回目の地震後にほとんど売り切れていた。
そのため飲料水をもっている人は少なく、喉の渇きを感じ始めていた。
市役所の方が非常時用の飲料水を提供してくださり、一人湯呑1杯ずつの水を飲むことができた。
しっかり味わいながら、最後の1滴まで飲み干した。
4月16日土曜日 AM8:00 「おにぎりが、ない」
それからしばらくして、午前8時を過ぎた頃、区役所から一時的な食糧が届いた。
水を入れるだけで米が炊ける「アルファ米」だ。
私も調理を手伝うことになり、早速、学校の教室を借りて取りかかった。
乾燥した米に具材を入れ、均等になるようによく混ぜる。
これに水を8リットル注いで封をして待つだけ。
電気も火も必要ない優れものだ。
40分ほど待つと、おいしそうな五目ご飯が出来上がった。
一人ずつ配れるようにおにぎりにして、パックに詰めた。
9時過ぎから配り始めた時、私は教室に残って片づけをしていたのだが、配給があるという情報を聞きつけた人ですぐに長蛇の列ができたそうだ。
約200人分準備したが、あっという間になくなり、全員に配ることはできなかった。
配布担当の方は複雑な心境をこのように話していた。
「おにぎりがなくなった瞬間、並んでいる人の落胆した顔を見ると、俺は悲しくて逃げ出したくなったばい。こんなことなら俺はもうやりたくなか……。」
4月17日日曜日 支援物資が届く! でも「全員分は、ない」
私の自宅がある熊本市の北区は、市内でも比較的被害が小さかったようだ。
水道とガスが止まってしまったが、それ以外は大した被害はなかった。
しかし市内の小中学校や公共施設などには、家屋の損壊や家具が倒れるなどして自宅で生活できなくなった人たちで溢れていると聞き、避難所へ行って支援をすることにした。
この日、私が行った小学校には約300人の被災者が避難していた。
到着して最初に手伝ったのが援助物資の仕分けだった。
今日で最初の地震発生から3日目だが、この小学校には既に多くの援助物資が届けられていた。
米、パン、缶詰、お菓子、カップラーメン、野菜、果物、水、お茶、ジュース、毛布、車いす、仮設トイレ、その他日用雑貨や衛生用品など多種多様な援助物資があった。
しかしお昼の配給は、一人につき、おにぎり一個だった。
さまざまな援助物資があるものの、全員に配るほどの数量がないので、配ることができないとのことだ。
夜の配給は地元住民により炊き出しが行われた。
メニューはカレーとおにぎり。
子どもたちにも手伝ってもらいながら家庭科室で調理した。
18時半頃に校内放送を流し、家庭科室までとりに来てもらった。
「何人分ですか?」
「2人分です。」
「分かりました、2人分ですね。」
人数ごとに器の大きさを決めており、1人分なら紙コップ、2人分なら小さめのボウル皿、3人分なら普通のボウル皿……といった具合だ。
家庭科室まで取りに来られない高齢者などが食べ損なわないように、カレーとおにぎりを抱えて体育館や教室へ手分けして配った。
別の日にある小学校に行った時には、熊本ならではの“こってり”した炊き出しがあった。
熊本に本店があるラーメンチェーン店が鍋とコンロを持参して小学校へ来て、その場で調理してくれた。
熊本ラーメンらしいこってりした豚骨スープと焦がしニンニクの匂いが漂い、食欲をそそった。
4月といっても夜は結構冷え込んでいたため、避難者にとって体も心も温まる炊き出しだった。
地震が起こってから特に3日間は、水や食糧を確保することが第一優先だった。
普段から備蓄していた人はこの点は慌てずに済んだであろう。
感謝すべきは、県内外からは本当に多くの支援物資が届いたことだ。
避難所によっては物資が届くのが遅れるなどの課題はあったものの、支援物資によって食糧と水の問題は比較的早く解消されたように思う。
※「熊本地震」被災日記(3)へ続く