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法律家の目でニュースを読み解く!(3)「東電OL事件」に見る冤罪と「消極証拠」

法律家の目で ニュースを読み解く!「東電OL事件」に見る冤罪と「消極証拠」

「東電OL事件」に見る冤罪と「消極証拠」

先頃、1997年に起きた「東電OL殺人事件」の犯人と見られていた男性の無罪が確定し、事件発生から20年経って冤罪が認められました。なぜこのような冤罪事件が起こったのでしょうか? そこには「消極証拠」に対する捜査側の驚くべき対応があったと言います。今回は同事件に対する捜査の流れをたどりながら、冤罪と「消極証拠」について解説します。

協力:三上誠
元検察官。弁護士事務所勤務を経て、現在はグローバル企業の法務部長としてビジネスの最前線に立つ、異色の経歴の持ち主。

東電OL殺人事件
1997年、東京電力社員だった女性が、東京都渋谷区円山町のアパートで絞殺死体となって発見された事件。容疑者として逮捕されたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ氏は事件の第一発見者であり、このアパートのオーナーが経営するネパール料理店店長だった。被害者女性は会社勤めの一方で夜は売春を行なっていたことが捜査で判明し、ゴビンダ氏はこの女性の客の一人だったと見られた。

―「東電OL殺人事件」では、1997年に殺人犯の汚名を着せられて逮捕されたネパール人のゴビンダ氏が、1997年5月~2012年6月まで約15年間もの間、東京都拘置所および横浜刑務所に拘置・収監されていました。なぜこれほどの長い歳月が経ってから、冤罪が認められたのでしょうか?

まず、冤罪を生む温床とも言うべき、捜査側の問題点について解説したいと思います。
ゴビンダ氏の無罪が確定した今もなお、当時捜査を担当した警察官の中には、ゴビンダ氏が犯人だと強く主張する人がいることも報道されています。無罪が確定しているのに、どうしてこういうことが起こるのでしょうか。
日本に限らないのですが、犯罪者の有罪か無罪かを判断する裁判では、「疑わしきは罰せず」という大原則があります。つまり、この人が犯罪を行ったかもしれないが、この人でない可能性もある、という状況では、有罪にしてはならないという原則です。この場合、その人は無罪になります。

これは逆に言えば、無罪になったからといって完全に「シロ」とはいえず、犯人かもしれない可能性がないわけではない、となります。あくまでも、「犯人であるという十分な証拠がないだけ」とも解釈できます。これを今回の事件にあてはめて見ると、当時の捜査担当者がゴビンダ氏を今に至るまで「犯人である」と断定して見解を変えない態度から、警察が一度犯人と決めつけたら、たとえ裁判所が無罪だと判断してもそれを受け入れないほど頑な体質が見て取れます。
 

―捜査側のこのような頑なな態度が、冤罪を生む原因の一つになっているということでしょうか?

はい、そう言っても過言ではないと思います。逆説的に言えば、「疑わしきは罰せず」の原則があるため、捜査側が犯人だと確信しているその人(たとえばゴビンダ氏)を有罪にするためには、「その人以外に犯人がいない」といえる証拠をそろえなければならないわけです。

そのため、まずは「犯人」から自白を取ろうと厳しい取り調べが行われます。その過程で、無理やり自白を取ったことが後々問題となった冤罪事件が多々あることは皆様もご存知のとおりです。しかし、最近の冤罪事件を見ると、自白よりも警察・検察の証拠の取り扱いが問題になることが多いようです。
 

―今回の事件の再審が実現した経緯を説明していただけますか?

ゴビンダ氏が収監後、無罪を訴えて再審を要求し続けたことから、2011年になってようやく、弁護側と裁判所の要請に押し切られて検察側が調査を実施しました。その結果、被害者の体から検出された体液や、付近に存在した体毛から別人のDNAが検出され、ゴビンダ氏が犯人でない可能性が高まり、それが同氏の釈放につながりました。

逮捕から14年も経ってからこんな証拠が出てきたと聞くと、びっくりするのが普通ではないでしょうか。
 

―なぜこのようなことが起こったのでしょうか?

あまり知られていないのですが、実は検察や警察にとって一番難しいのは、「消極証拠」の取り扱いです。消極証拠とは、「その人が犯人ではないかもしれない」ということを推測させる証拠です。「疑わしきは罰せず」の原則があるため、検察や警察がどんなにがんばって「こいつが犯人だ」というさまざまな証拠を集めてきても、「その人が犯人ではないかもしれない」という強力な消極証拠が1つでもあると、結局有罪に持ち込むことができません。たとえば、ゴビンダ氏の事件では、被害者の体内に精液があり、胸には唾液が付着し、さらに体毛も見つけられていました。ところが驚くべきことに、これらに対するDNA鑑定は当時、行なわれていなかったのです。
 

―それはこれらが消極証拠になり得るものだったからでしょうか?

はい、そうです。これは、別の証拠からゴビンダ氏を犯人だと特定している捜査側にとっては、「その人が犯人ではないかもしれない」という消極証拠になり得るものでした。DNA鑑定をして「ゴビンダ氏のものだ」となればいいですが、もし他人のものだとなればすべてを覆す強力な消極証拠になってしまいます。しかしゴビンダ氏以外の容疑者が存在しない状況では、放っておけば、「多分ゴビンダ氏のものだろう」ということで、余計な疑いをかけられなくて済みます。当時、結局これらの証拠について、DNA鑑定は行われていませんでした。捜査側がそのように考えたのかどうかは今となっては分かりませんが、検察と警察はこれらのDNA鑑定が強力な消極証拠になる危険性に感づいていた節があります。これらのうち、唾液については、ゴビンダ氏の血液型とは合わないことは当時から判明していました。だから、「それ以上、捜査したくなかったのではないか」という憶測を生むには十分なのです。

もし、最初にこれらの証拠についてDNA鑑定が行われていたら、「ゴビンダ氏の有罪認定には到達しなかったのではないかと思われる」と、再審無罪を言い渡した東京高裁の小川正持裁判長は述べています。
 

―なぜ真実を歪めてまで、消極証拠に対してそのような対応をするのでしょうか?

ある人物を犯人と特定したい場合、検察や警察にとっては消極証拠は不都合な真実なのです。強力な消極証拠があれば、「疑わしきは罰せず」の原則で、これまで積み上げてきた証拠が一発で意味を持たなくなってしまいます。「犯人はあいつに違いない」「絶対に有罪にしなければならない」、そのような確信があればあるほど、消極証拠はない方がいいのです。「寝た子を起こすようなことをするな」、ということであえて捜査しないこともありますし、もっとひどい場合には手元にある消極証拠を隠してしまう場合もあります。

 

―消極証拠の隠ぺいによって起こった冤罪事件には、ほかにどんなものがありますか?

2009年に当時10代の女性に性的暴行を加えたとして強姦で有罪判決を受け、大阪地裁で懲役12年の有罪判決を受けた男性が、6年後の2015年10月に無罪判決を受けた事件がありました。この事件は、被害者の女性が、実は被害を受けた証言は虚偽であったとその男性の弁護人に後になって告白したことが契機となって無罪に繋がったものでした。

この男性の無罪が判明していく過程で、被害者の事件当時の診療記録に「性的被害の痕跡はない」という記載があったことが明らかになりました。ところが、男性が有罪になった当時の裁判で、弁護側が被害者の診療記録を取り寄せるよう求めていたのに対して、検察は「診療記録は存在しない」と伝えていました。もしこの診療記録が、有罪判決が下された裁判で提出されていたら、結果は異なるものになった可能性が極めて高いです。

検察官や警察官がこのような重要な消極証拠を隠してしまえば、裁判官は正しい判断をすることができません。裁判官は、法廷に出ている証拠からしか判断をすることができないからです。そして、刑事事件では証拠のほとんどすべてを握っている検察官や警察官が、消極証拠をあえて捜査しなかったり、隠したりすることは簡単なことなのです。

本来、「疑わしきは罰せず」の原則からすれば、このような消極証拠に対して、徹底的に「他の犯人がいる」可能性を消す捜査をしなければなりません。しかし「有罪」という結論を得たいがために、検察および警察側が強力な消極証拠は調査しないとか、隠してしまうという安易な方法をとってしまうことが、残念ながら少なからずあるのです。

東電OL事件は、このような消極証拠の間違った取り扱いが背景にあった、典型的な冤罪事件の一つだったと言えます。

(写真はイメージ)